11「ヨハネ主の日に幻を受ける」

 「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、『あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい。』」黙示録1:10,11
 ここで言われている『主の日」とは神の制定された真の安息日の意味である。我々はしばしば安息日はすでに変更されたという主張を耳にするが、安息日の制定者であられる神も御子キリストもそれを変更されたという事実はない。一週の第七日目すなわち現在土曜日と称している日は昔も今も神の聖なる安息日として記念されるべきである。神はこの日を「わが聖日」(イザヤ58:13)と宣言され、またキリストは自らを「安息日の主」(マタイ12:8)と唱えられておられる。なお神は「十戒」の中に「七日目はあなたの神、主の安息である」(出20:10)と言われているのである。我々がいくら旧新約聖書を検討してみても、安息日が変更されたという事実を裏書する記事を見つけることは出来ないのである。であるから我々はパリサイ人のパン種すなわち伝説的教理を警戒しなくてはならない。安息日は創造と贖罪とを覚える神聖な記念日である。であるからこの日にヨハネが黙示を受けた事は実に意義深いことと言うべきである。すなわちこの創造完成の記念日は、幻の中にある預言者が罪の歴史と各時代にわたる迫害と患難、神の栄ある再創造及び罪と死とが永遠に消滅する有様を見る窓となったのであった。
 言うまでもないことではあるが、この黙示録に示された事は人間の頭脳から考え出された虚構の事ではない。その昔神がシナイ山においてモーセに律法を授けられた時、山上より大いなるラッパの音が響き渡ったように、ヨハネはこの時、「ラッパのような大きな声がするのを聞いた」のであった。この「ラッパのような大きな声」とは最高の権威を意味するものであるが、この声はすべて「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」とヨハネに命じたのである。この七つの教会の関しては、2,3両章において詳述するので本章においてはこれを省略するが、要約していえば、黙示録は当時の教会にとって必要な訓戒を与えるために記されたものであると共に、また今日の神を恐れ、またキリストを信じて生命の冠を受けようとする者に対してさらに必要な教訓を与えるものである。

ブログ村ランキングに参加しています。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村