19「第1世紀のキリスト教会」

 そもそもエペソという名称はただ単に当時の大都市エペソの壮麗さを表現するのにもっともふさわしいものであったばかりでなく、第1世紀のキリスト教会を代表するのにもこれ以上適当な名称は他にありえないといっても過言ではない。この時代には本書の筆者ヨハネも生存していたし、ペンテコステ聖霊降下などがあり、使徒たちは豊かに聖霊の恩恵に浴していた。これらの使徒の中で最も活躍して初代教会建設の大業を完成した者にパウロがいた。われわれは新約聖書の大部分からこうした聖徒等の活躍の後を窺い知る事ができるが、星をもつ者が燭台の間を歩みつつエペソ教会のよき信仰と良き業とを賞賛されるのももっともなことである。すなわち当時の信徒たちはイエス・キリストの純福音を信受し、かつまた聖霊に満ち溢れたことを体験していたために、罪に対して大いなる抵抗力をもち、真に世の光となっていた。実に彼らの一致と忍耐と愛は世にとって大いなる祝福であった。「キリストに対する愛が、彼らを共に結び合わせる金の鎖であった。彼らは主を更にもっと完全に知ろうとした。そして彼らの生活にキリストの喜びと平安があらわされた。彼らは困っている孤児ややもめを見舞い、みずからは世の汚れに染まずに身をきよく保った。そして、この事がうまくできなければ、自分たちの信仰の表明に矛盾し、あがない主を拒むことになると悟っていた。」(患難から栄光へ57章)
 真理に対する初代信徒たちの熱心は福音宣伝事業に短期間で大幅な進歩を促し、「福音の望みは天下の万人」に伝えられるに至った。福音宣伝事業が発展するに従い、組織の必要はいよいよ切なるものがあったので、彼らは自然にしかも単純また適宜に組織を樹立した。(使徒行伝6:1〜6参照)前述の事に照らし合わせてみても当時の聖書的な使徒教会には無教会主義思想等はいささかもなく、キリストをぶどうの木または教会の頭と崇め、ふどうの木と枝または頭と身体諸器官のようにキリストとの一致調和を保ち、信徒らはこのつながりの中に互いに愛し合う生活を送っていた。


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