「キリストの御国の旗」

  「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

 地上の権力を代表している獰猛な獣の幻が、ダニエルに与えられた。しかし、メシヤの王国の旗印は小羊である。地上の国々が物理的勢力の台頭によって支配する一方、キリストはあらゆる肉の武器や強制の武具を取り除いてくださる。彼の王国は、堕落した人類を高めるために樹立されることになっていた。(SDAバイブル・コメンタリー4巻1171)
 アダムにとって、最初の犠牲をささげることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。……彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼に示した。罪を犯した者を救うために、そのような犠牲をお与えになる無限の恵みに彼は驚いた。(人類のあけぼの上巻61)
 預言を伴う犠牲の奉仕の型と影は、キリストの啓示によって世にもたらされるべきあわれみと恵みについて、覆いのかかったような不明瞭な見方をイスラエルに与えていた。……キリストを通してのみ、人は道徳律を守ることができる。この律法に違反することで人は罪を世にもたらし、罪によって死がもたらされた。キリストは人の罪のためのなだめの供え物となられた。このお方はご自分の品性の完全さを、人の罪深さと置き換えようと申し出られた。このお方はご自分の上に不服従ののろいをお受けになった。犠牲と捧げ物は、やがてキリストがなされる犠牲を指し示していた。ほふられた小羊は世の罪を取り除く神の小羊を象徴した。……
律法と福音は完全に調和していて、互いに支え合っている。律法は威厳をもって良心に立ち向かい、罪人に罪のための贖罪としてのキリストの必要を感じさせる。福音は律法の威厳と不変性を認める。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう」とパウロは述べている(ローマ7:7)。律法によってもたらされる罪の意識は、罪人を救い主の所に連れてくる。自分の必要から、人はカルバリーの十字架によって与えられた力強い主張を示すことができる。彼はキリストの義を主張することができる。それはすべての悔い改めた罪人に与えられるからである。(セレクテッド・メッセージ1巻237-241)

 ブログ村ランキングに参加しています。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村