「心の中にある神の御国」

 「見よ、……神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:21)

 イエスの在世当時の政治は堕落していて、圧制的であった。棄てておけない悪弊―搾取、偏狭、暴虐な残酷さがいたるところにみられた。それでも救い主は、社会改革を試みられなかった。主は国民の悪弊を攻撃したり、国民の敵を非難したりされなかった。主は、権力者たちの権威や行政に干渉されなかった。われわれの模範であられたおかたは、現世の政治から遠ざかっておられた。それは、主が人々の不幸に対して無関心であられたからではなく、これを救う方法がただ人間の外面的な手段にはなかったからである。効果があるためには、救済策は個人に及び、心を生まれかわらせねばならないのである。(各時代の希望中巻315)
 一部のパリサイ人たちがイエスのところへやってきて、神の国はいつ来るのかとたずねた。バプテスマのヨハネが、「天国は近づいた」とのメッセージをラッパの音のように国じゅうにひびきわたらせてからもう三年以上が過ぎていた(マタイ3:2)。それなのに、これらのパリサイ人たちは、まだ神の国が建設された徴候を見なかった。……
 イエスは、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とお答えになった(ルカ17:20,21)。神の国は心にはじまるのだ。神の国が来たことを表示する世俗的な権力の現れをここかしことさがし求めてはならない。(同上310)
 キリストが行われたことは、彼がメシヤであることを語るばかりでなく、その王国がどんな方法で建設されるかを示した。……それは、神のみ言葉の静かな感動や心の中の聖霊の働きや魂とその生命であるキリストとのまじわりによって来るのである。人間の性質がキリストの完全な品性と同じようになるときに、神の国の力の最高のあらわれがみられるのである。……
 神がそのみ子をこの世に与えてくださったとき、彼は人間に不朽の富をおさずけになった。その富は、世の初めから人間がたくわえた富もこれに比較すると無に等しいような富である。キリストは永遠の昔からたくわえられていた愛をもってこの世にきたり、人々の前にお立ちになったが、その愛こそわたしたちが彼とつらなることによって、これを受け、あらわし、人に分け与えねばならない宝である。(ミニストリー・オブ・ヒーリング16-18)

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