57「三つの勧告」

 ラオデキヤ教会は惰眠を貪りつつある。そして「平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ6:14)。またこの教会はその言動によって「主人の帰りがおそい」(ルカ12:45)と語っている。イエスはこの時代の教会を十人の乙女のたとえをもって示された。(マタイ25:1〜13参照)すなわち彼らは皆居眠りして、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」という夜中の叫びによって目覚めるまで眠っていたが、この中で必要な準備をしていた賢い5人の乙女は婚宴の席に入ることを許された。ラオデキヤの教会に対しても目覚めよとの警告の使命が与えられているが、大多数の者はこの警告に耳をかさず、花婿を迎える準備をしない事は真に悲しむべきことである。「あなたを口から吐き出そう」とは、決してたんなる威嚇的な言葉ではない。古代イスラエルに対して神のなされた事は、またラオデキヤ教会に対する適切な警告ではなくてなんであろう。神は忍耐の神であられるが、決して侮られる方ではない。
 ラオデキヤ時代のクリスチャンは必ずしも偽善者ではないが、彼らの多くは欺かれてその事を知らないのである。彼らは実は悩める者、「憐れむべき者、また貧しき者」であるにもかかわらず、わがままな理屈をつけ、「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と思っているのである。彼らは貧しくてもその実、富んでいたスミルナ時代に比べて、全く反対の状態を呈している。神の国に入るために必要とされている富からみれば、ラオデキヤ教会の有する富はなんと憐れむべきものではないか。彼らはこのような憐れむべき状態にありながら、依然として自己欺瞞に陥っているために、彼らを覚醒させることは実に至難のわざである。であるからキリストは彼らを理想的クリスチャンとするために、愛と柔和と忍耐をもって働かれている。極端な手段によっては何らの効を奏しない。であるから彼はラオデキヤ教会に三つの物、すなわち「火で精錬された金」、「白い衣」、「目薬」を買うようにと勧告懇請されているのである。
 「ここで勧められているところの『火で精錬された金』とは、信仰と愛である。それは心を富ませる。なぜかといえば、それは潔くなるまで練られ、試みられれば、試みられるほど、その光沢を増してくるからである。『白い衣』とは潔い品性のことであり、罪人に賦与されるキリストの義である。また『目薬』とは、我等に善悪を識別させ、またどんな仮面を装ってもその中に潜む罪を看破させる天来の知識であり、それは理解力を増進させるものである。そしてキリストは全ての恩恵の源泉であり、彼は『私より買え」と言われているのである。」―エレン・ジー・ホワイト
 我等は神に対してまた善事に対して常に富むために、信仰と希望と愛と純金とを買うことを強く勧告されている。(ガラテヤ5:6、テモテ第一6:18参照)我等の作る衣は全く失敗である。それは「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6)からである。真の証人キリストは我等が麻の衣を着ることを望んでおられる。それは「聖徒の義」であり、キリストご自身の義が聖徒の上に与えられるのである。
 「あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。」人が裸であるということは関心したことではないが、精神的裸体においてはことに然りである。神はこれを最も忌み嫌われるのである。我等はまた我等の霊の眼が真にイエスの愛を見ることができるために天の薬剤師より目薬を買えと勧告されている。この識別力は聖霊、すなわち完全な教師であられる慰める方によって与えられているのである。(ヨハネ14:26、16:13参照)この驚くべき目薬は、憐れみ深きイエスによって目の見えなかったバルテマイを癒したように我等の盲目を癒すであろう。(マルコ10:46−52参照)
 魂の貧困、憫情および盲目に対するあらゆる救済策も、前記三つの物の代わりとはなり得ない。教育、文学、科学、哲学、倫理、行儀作法等は、各々その領域を有するけれども、罪に悩める魂を救済することはできない。我等はこの世の何物によってもこの尊き宝を求める事は出来ない。ただイエスの許へ行くより他はないである。
 英国国立博物館に陳列してある一冊の書物の欄外に、有名な詩人コレリッジが肉筆をもって下記のような最も感動すべき言葉を記している。「わたしは生涯の大部分を、自分が憐れむべき者であるという事、貧しく目が見えず、裸であるということを知らずに過ごしてきた。それだけでなくわたしはそれを知った後にでもなお十分に関せずにいた。しかし私は今それを痛感するに至った事を神に感謝する。およそ人間は自らの中に省みるとき内心わだかまっている罪の醜悪な姿を発見することができるであろう。私はいままで哲学者の言葉や詩の一句等に欺かれていたが、その理由の大部分は私の心の高慢および自負にあったのである。そして聖書の言葉によって、またわたしの過去の経験に求めても、私の中には全く誇るに足るべきものは存在しない事は明らかである。イエス・キリストの宗教の目的は、人間の思想および生活のみならず、気質その物までも変化させる事にある。が、それははたしていかにしてなされるものであろうか。それは優秀な訓戒によるものでろうか。また強い勧告や報償の約束によるものであろうか。決してそうではない。それはただ人々に自分が悩む事、罪深い事、目が見えないこと、無力な事等を認識させ、罪の許しが必要な事と、超自然の力と援助の必要な事等をつまびらかにし、罪人を悔い改めさせ、キリストによる福音的恩恵を実際的に彼ら自身のものとする事などのよってのみなされるのである。」(Patomos Letters pp204,205)

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