第三編第1章「第三天使の使命と経験」

第1章 第三天使の使命と経験


 「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、『おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。』」―黙示録14:9-12
 
 第三天使の使命は神がこの地に送られた使命の中、最も厳粛で重要な使命を伝えている。「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、『おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない』」(黙示録14:9-11)。

 私はこれほど恐ろしい使命を聖書の中で読んだことがない。獣を拝みその刻印を受けるものは神の怒りの杯を飲み、火と硫黄で苦しめられ昼も夜も休みが得られないという恐ろしい警告を第三天使は中空を飛びながら叫んでいる。


神の怒り


 再臨信徒たちよ、神の怒りに対して考えてみたことがあるだろうか?怒りの杯に混ぜもののないぶどう酒、すなわち憐みが混じっていない神の怒りを味わうようになるという警告は真に恐ろしいことではないだろうか?預言者たちは神の怒りの時を非常に恐ろしいものとして描写している。
 「見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる。そして、その民も祭司もひとしく、しもべも主人もひとしく、はしためも主婦もひとしく、買う者も売る者もひとしく、貸す者も借りる者もひとしく、債権者も債務者もひとしく、この事にあう。」―イザヤ24:1,2
 「『主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない』(イザヤ26:21)。『エルサレムを攻撃したもろもろの民を、主は災をもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。 その日には、主は彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻める』(ゼカリヤ14:12,13)。自分たち自身の激しい怒りによる争いと、神の、あわれみを混じえない怒りの恐るべき降下によって、地の悪しき住民たちは、聖職者も為政者も民衆も、金持ちも貧乏人も、地位の高い者も低い者も、倒れてしまう。『その日、主に殺される人々は、地のこの果から、かの果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地のおもてに糞土となる」(エレミヤ25:33)。」―各時代の大争闘下巻p.440
 「『そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた』と預言者は言っている(エゼキエル9:1-6)。滅びの働きは、人々の霊的保護者と称してきた人々から始められる。偽りの夜回りがまず第一に倒れる。あわれんだり助けたりする者はない。老若男女がみな滅ぼされる。」―各時代の大争闘下巻p.439
 神の怒りの日にはこの地はくつがえされ、むなしくされ、荒れすたれて、地上の全ての住民が神の怒りを受けるようになるであろう。神の怒りは草木や生き物までもが苦しみからのがれることができない。特に偽の見張り人たちがこの怒りを最初に受けるようになると書いてある。
 この世が存在して以来、全ての災いには神の憐みが混じっていたが、第三天使の警告に表された神の怒りは憐みが混じらない恐ろしいものとなるであろう。幼い子供たちまでもが憐れみのない災いを受けるであろう。憐れみ深い我々の神がなぜこのように怒られるのであろうか?


いつくしみ深い神の怒り


 人類が罪を犯して以来、神は六千年の間絶えず哀れみを与えられ、罪によって無価値になった人間を救うために御自分のすべての愛をこの世に注がれた。神がこの世に一人子を送られたということは全天を犠牲にしたのと同じことであった。しかし人々はこのような神の愛にどのように反応したのであろうか?
 神が御自分の一人子をこの地に送られる為に天の政府では三回の会議が行われた。全能なる神であり全てのことを知っておられる天父が御子をこの世に送られることを決定するにはただ一回の会議で決められるような簡単なことではなかった。神に困難なことなどあるのだろうかと人々は考えるかも知れないが、御父にとって、御子をこの世に送られることだけは苦しく大変なことであった。
 「天使は言った、『あなたは、天父が何の苦しみもなく愛し子を手離されたと思いますか。決してそうではありません。罪の人類を滅ぼすか、それとも人類のために愛し子を死なせるかということは、天の神にとっても戦いでした』と。」―初代文集p.264
 「堕落した人間の子らのための『平和の一致』であった(ゼカリヤ6:13)。救いの計画は、地球が創造される前にたてられていた。キリストは『世のはじめからほふられた小羊』(黙示録13:8・詳訳聖書)であった。しかし、宇宙の王であられる神にとっても、み子を、罪を犯した人類のために死にわたすことは苦闘であった。ところが『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16)。ああ、贖罪はなんと神秘なものであろうか。神を愛さなかった世界を、神はどんなに愛されたことであろう。『人知をはるかに越えた』その愛の深さをだれが知ることができるだろうか。永遠の命を与えられた人々は、このはかり知れない愛の奥義を、永遠にわたってさぐり求めて、驚き賛美するのである。」―人類のあけぼの上巻p.54
 「わたしにつきそっていた天使は、イエスが天父と親しく語っておいでになると言った。イエスが天父とお話しになっている間、天使たちは心配で緊張しているようにみえた。イエスのお姿は、天父のまわりの輝く光の中に、三度見えなくなった。三度目に、天父のところから出てこられるイエスのお姿がみられた。イエスの顔つきは落ちついて、困惑や疑いの影は少しもみられず、言いあらわしようのない慈愛に満ちていた。その時イエスは、失われた人類のためにのがれの道が備えられたことを天使の万軍にお知らせになった。」―初代文集p.260
 このような大いなる神の愛を無視し、救われることを拒否した罪人に神は怒りをあらわされることであろう。これは罪人のために愛する御子をも惜しまずに与えられた愛を信じず、不信仰によって罪を捨てない者に対する神の怒りである。キリストは父なる神からのろわれ、苦しみ、生命を捧げられた。彼は律法ののろいを受けなければならない罪人のためにご自身を捧げられた。しかし自ら服従することを拒否する者に対しては、神の怒りがあらわされるのである。


のろいとなって


 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」―ガラテヤ3:13,14
 再臨信徒たちよ!あなたは誰かにのろわれたことがあるだろうか?誰かに悪口を言われたことはあるかもしれないが、のろわれた経験はあまりないのではないだろうか。たとえ小さい子供やかよわい女性からだとしても、のろわれるということを想像するだけでもぞっとすることである。そうであるのに神にのろわれたとしたら、それはどれほどのことであろうか?
 救いの計画の中には神が御自分の御子に律法ののろいを宣言するという恐ろしい計画が含まれていた。律法ののろいとはどのようなことであるかを知っておられる神にとって、御子をこの世に送られることを決めることは実に苦しいことであった。
 天父が御子をこの世に送られたのは私たちが信仰によってアブラハムの祝福を受けるためであると聖書に記録されている。罪を犯した人類の罪をあがなうためには罪人が受けるべき律法ののろいすなわち神ののろいを御子が受けなければならなかったのである。
 律法ののろいがどのようなものであるかを知っておられる御父が御子をのろわなければならなかったのである。神ご自身実に恐るべき苦しみを経験されたのであった。その苦しみがどれほどの苦しみであるかはゲッセマネでの主の苦しみとうめきを聞くならば、私たちにもわずかながら知ることができることであろう。
 「キリストが、人の魂のために払われる価について思いをめぐらしておられる姿を見なさい。苦悩のあまり、主は、神から遠くへ引き離されまいとするかのように、冷たい大地にすがりつかれる。冷たい夜露がそのひれふしたお体におりるが、主は気にされない。その青ざめたくちびるから、『わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』とのいたいたしい叫びがもれる。それでもなお主は、『しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』とつけ加えられる(マタイ26:39)。」―各時代の希望下巻p.178
 「サタンの精神を吹き込まれている人たちとの戦いに、イエスは、『わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない』と言うことがおできになった(ヨハネ8:29)。しかし今イエスは、神のささえの臨在という光からしめ出されているようにみえた。いまイエスは『とがある者と共に数えられた』(イザヤ53:12)。堕落した人類の罪をイエスがお負いにならねばならない。罪を知らなかったお方の上にわれわれの全ての罪とががおかれねばならない。罪が非常に恐るべきものに見え、イエスの負われねばならない不義の重荷があまりに大きいので、イエスは、そのため天父の愛から永遠にしめ出されるのではないかという恐れにさそわれる。罪とがに対する神の怒りがどんなに恐るべきものであるかを感じて、イエスは、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』と叫ばれる(マタイ26:38)。」―各時代の希望下巻p.173
 「この苦悩からのがれるために、キリストは、神としての力を働かせてはならないのである。人間として、キリストは、人の罪の結果をお受けにならねばならない。人間として、キリストは、罪とがに対する神の怒りに耐えたまわねばならない。」―各時代の希望下巻p.176
 「キリストが堕落した人間の本性を取られたとき・・・彼も人間の弱さに囲まれていた。・・・キリストは我々の弱い感情に触れ、すべてのことにおいて人間と同じようにテストされた。・・・サタンがキリストを誘惑して最も小さい罪でさえ犯させることができたならば、彼はキリストの頭を砕いたことであろう。しかしサタンは彼のかかとを砕いただけであった。もしキリストの頭が砕かれたならば人類の希望は消えたであろう。神の怒りがアダムに下ったのと同様にキリストの上にも下ったであろう。キリストと彼の教会は何の望みもなくなったことであろう。」―サインズ・オブ・ザ・タイムズ1898年6月9日
 「しかし神はみ子と共に苦しまれた。天使たちは救い主の苦悩を見守っていた。彼らは、主がサタンの大軍にとりかこまれ、その人性が身ぶるいするような、ふしぎな恐れに圧倒されるのを見た。天は沈黙していた。立琴は音をたてなかった。天父が愛するみ子からご自分の光と愛と栄光の輝きをとり去られるのを天使たちが無言の悲しみのうちに驚いて見守っている有様をもし人間が見ることができたら、彼らは罪が神の御目にどんなに恐るべきものであるかをもっとよくさとるであろう。」―各時代の希望下巻p.183
 人間の罪をあがなう救いの計画において、神性の能力と資格を持っておられる御方の犠牲が要求され、また罪を犯した人性を持った人間として、罪のない生涯を生き、模範を示すことが要求された。それだからわたしたちの主は神性の資格で罪を犯した人類の罪をあがない、また罪によって弱くなった人間の模範となるために罪を犯した人性をとらなければならなかった。その結果はどのようなものであったのだろう?
 主は我々のようにサタンに誘惑されて、罪を犯すことも可能であった。そしてもし罪を犯したのなら、神の怒りがアダムに下ったのと同様にキリストの上にも下った。これは実に驚くべき事実である。


力強い第三天使


 「イエスは、聖所における奉仕を終わり、至聖所に入って、神の律法を納めた箱の前に立たれた時に、世界に対する第三の使命をたずさえたもう一人の力強い天使を、お送りになった。」―初代文集p.414
 第三天使は力強い天使であると証の書に書いてある。なぜ第三天使は力強い天使なのだろうか?それは第一天使の使命で永遠の福音を経験し、第二天使の使命によって罪と罪人から分離される経験をしたからである。
 我々は今まで救いの計画に現された神の愛と我らの主の言い表せない苦しみと犠牲を簡単にではあるが学んできた。であるから私たちもヨハネのように告白できなければならない。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(第一ヨハネ3:1)と言う愛の告白が我々のくちびるから出なければならないのではないだろうか?力強い天使は続いて次のように叫んでいる。
 「天使の手には、羊皮紙が渡された。そして、彼は、力と威光とをもって地に下り、これまで人類に伝えられたことのない、恐怖すべき威嚇をもった恐るべき警告を発した。このメッセージは、神の民の前にある試みと苦悩の時を彼らに示して、彼らに用心させるためのものであった。『彼らは、獣とその像と激しく戦わなければならない。彼らが永遠の生命を得る唯一の希望は、堅く立つことである。彼らは、その生命が危機にひんしても、真理に固く立たなければならない』と天使は言った。第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終わっている。」―初代文集p.414
 愛する再臨信徒たちよ、真に我々は力強い天使となっているだろうか?真に我々はこの地が存在して以来最も厳粛で恐ろしい警告を宣布する準備ができているであろうか?第三天使は獣とその像と戦うようになるであろう。それだから我々は永遠の命に対する堅い望みと、神の愛に対する揺るがぬ信仰を持っていなければならない。なぜなら我々は獣とその像と戦わなければならなず、この世で最も恐ろしく厳粛な神の警告の使命を伝えなければならないからである。このことは簡単なことではなく、殉教者たちの信仰を超える信仰と忍耐が要求される大変な事である。神の戒めを守りイエスの信仰を持ち続けるためには非常な忍耐が要求されるのである。
 第三天使には能力と力がなければならない。能力と力のない名目的な第三天使は獣とその像との戦いで勝つことができない。もし勝利できないのなら、かえって私たちが伝えるその使命によって神の怒りを受けるようになるであろう。
 「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、」―黙示録14:9,10
 それだから私たちはもう一度、第一天使と第二天使の使命によって能力と力を得、力強い天使として生まれ変わる経験が必要である。なぜなら第一と第二天使の経験がない者たちは神の怒りの杯を受けるようになるからである。


怒りのぶどう酒を飲む者


 恐ろしいことは、人類を救うために御子をのろうことまでされた神の憐れみの招待を拒む者には、神は御自分の怒りの杯を飲ませるということである。
 「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1:18)と言う悔い改めの招待を拒否した者に神の怒りは下されるであろう。
 「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」―黙示録3:18,19
 「彼らは自らの無価値さを漠然と認め、罪悪感はあるが、民の上に神の不興をもたらしたところの罪を告白することを拒む。このように多くの人々は、自分本位と欺瞞の罪、神と隣人への不正直、家族に対する罪、そして公の場での告白に値する他の多くの罪を隠すのである。」―ST1881年5月5日
 「わたしたちは、自分は他の人たちのような悪いことは何もしていないとうぬぼれることがあるかもしれません。しかし、たとえ品性の美点があってもそこに一つの弱点があれば、…心は二つに分れて自我と神との両方に兼ね仕えているのです。神の子たる者は、自分の心の中で甘やかしふけっている罪をさぐり出し、その罪を神に心から切り取ってもらわねばなりません。その一つの罪に勝利しなければなりません。それは神の御目には、決して取るに足りない問題ではないのです。 」―青年への使命p.81,82
 「神は二心の者の中には住まわれないし、二心の座を支配されることもない。愛情をとらえ、それらを愛の神からそらす心の中の絶対者は心の座から退位させなければならない。」―彼を知るために2月26日
 「神は侮られるようなかたではない。…彼のあわれみと祝福をおろそかにする人々は貫くことのできない暗黒を自分に招き寄せるようになり、神の怒りの候補者となるであろう。」―教会への証4巻p.191
 「彼の愛がどれほど無視され彼の同情がどれくらい誤用されたのか…」―最後の出来事p.275
不従順で完全に屈伏しないものたちに神は怒りを下されるであろう。
 「神の怒りは不従順の子らに下るのである。」―エペソ5:6
 「不従順のものには約束もなく祝福もなく、ただ神の怒りのみがあるであろう。」―説教と預言2巻p.105
 「神の力がクリスチャンであると公言する人々の生涯に少しか影響を及ぼすことができないような状況になっている。…イエスの愛が魂を支配する原則が行われていないので、生涯を導く能力を活用することができない。真理に少ししか屈服しないということによって、サタンが自由に働くことのできる機会を与える。魂の聖所が神に完全に支配される時まではその心は敵の城となる。」―レビュー・アンド・ヘラルド1899年11月28日
 神の律法を無視し軽んじる者たちは神の怒りのぶどう酒を飲むようになるであろう。
 「神の律法を軽視し、キリストの血を足の下に踏みにじった者たち…はみな『ほら穴や山の岩かげに』身を隠し、山と岩とに向かって言う、『われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』(黙示録6:15〜17)。」―人類のあけぼの上巻p.402
 「すべての人に試練がやってくる時は、あまり遠くはない。われわれは偽の安息日を守るように強制される。それは、神の戒めと人間の戒めとの間の争いである。一歩一歩世俗の要求に屈伏して、世俗の習慣に妥協した人々は、その時、嘲笑、侮辱、投獄と死の脅威にさらされるよりは、地上の権力に従ってしまうのである。その時、金が不純物から分離される。真の敬神深さが、ただうわべだけの見せかけからはっきりと区別される。われわれが輝かしさを賛美した多くの星が、その時暗黒の中に消えていく。聖所の飾りのようなふうをしてはいたが、キリストの義をまとっていなかった人々は、その時裸の恥をさらす。」―国と指導者上巻p.156
 平和だ無事だと叫ぶものたちは神の怒りからのがれることができないであろう。
 「我々はここで聖所すなわち教会が神の怒りを真っ先に受けるということを知ることができる。年老いた者たち、神から大いなる光を受けた民の霊的利益を守る者として立てられた者たちが彼らの義務に背いた。…それだから、声をラッパの声のようにあげて神の民に彼らの罪とヤコブの家に罪を知らせなかった者は『平和だ無事だ』と叫ぶ。このように吠えない犬たちは神の怒りの復讐を受けるようになる。」―2TT,p.65,66
 「『あなたがわたしに真理を信じさせまいとしたのだ。そうでなければ、こんな恐ろしい目に会わずにすんだものを』と言って、大声で泣きわめくのが、四方から聞こえた。人々は、激しい憎しみをもって牧師たちに向かい、『あなたは、わたしたちに警告してくれなかった。あなたは、全世界の人が悔い改めて救われる時が来ると言ったではないか。あなたは、平和だ、平和だと叫んで、恐怖心の起きるたびに、それを静めてしまって、こんなことになるとは言わなかったではないか。わたしたちに警告する人があると、あれは狂信者で、わたしたちを滅ぼす悪い人たちだと、あなたは言ったではないか』と言って、彼らを責めた。しかしわたしは、牧師たちも神の怒りをまぬかれないのを見た。」―初代文集p.455
 食欲と情欲を節制しない貪り食う者たちが神の怒りの杯を飲むようになるであろう。
 「食欲と情欲がキリストに従うと公言する多く人々を支配している。罪と親しみ彼らの感覚がとても鈍感になったため、彼らは罪を魅力的で憎むべきものではないものとみなす。万物の終わりが近づいた。神は人間の罪と低俗な悪をこれ以上長く忍耐されないであろう。彼らの罪は…神の恐ろしい災いによって報いられるであろう。彼らは憐れみの混じっていない神の怒りの杯を飲むようになるであろう。」―1TT,p.398
 「私に与えられた光によると、我々が動物性食品をすべて廃さなければならなくなる時はあまり遠くない。牛乳でさえも廃さなければならなくなる。病気は急増している。人間が世界を呪ったために、神の呪いがその上に及んでいるのである。」―食事と食物に関する勧告p.333
 「私は、その問題についてみじんも取り繕うことなく、ヘルス・ホームにいる人々が死んだ動物の肉を食卓に持ってくるならば、神の怒りを受けると言った。」―食事と食物に関する勧告p.392
 「食欲の支配的な力が多くの人々を滅ぼしていることが証されるであろう。もし、彼らがその点で勝利したならば、彼らはサタンのほかの全ての誘惑で勝利しつつ道徳的能力を所有するようになったであろう。」―教会への証3巻p.491,492
 神と共に富という偶像に兼ね仕えようとする者には神の怒りが臨むであろう。
 「時間を浪費し、創造主の代わりに富を崇めた者の上に神の怒りが与えられるのである。」―教会への証4巻p.54


力強い天使として生まれなければならない


 再臨信徒たちよ、第三天使は力と能力をもった天使である。
 1844年、最も聖なる場所である至聖所の幕が開かれ、同時に契約の箱のふたをキリストが開かれた。ホワイト姉妹はそこで生ける神の律法の栄光を見た。
 至聖所から輝く生ける神の律法の栄光は人間の考えと動機までをも示している。私たちはこのような神秘的な鏡をのぞき見つつ力強い天使として生まれ変わらなければならない。
 まもなく獣の像がたてられる。そしてその時我々は大声で「・・・『おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲』」むと叫ばなければならない(黙示録14:9,10)。
 はたして私たちにはこの大いなる叫びをあげる力があるだろうか。この力は群集心理のような感情や気分のようなものではない。また理論や知識を持ち、預言を知っているからといって大いなる叫びに参加することができるのでもない。ただ心と考え、そして行いにおいて汚れとしみのない美しい品性を所有した者たちのみが大いなる叫びをあげる力を得るのである。心から神を愛し自分の十字架を負って、小羊の行く所へはどこへでもついて行く者たちが所有することのできる能力であり力なのである。
 再臨信徒たちよ、私たちは皆共にこの栄光の場に参加しようではないか?もし心からそれを望むのなら、その働きにふさわしい準備が必要である。
 見よ、今は恵みの時である。不足を補うことのできる今日一日を与えられた方に感謝しよう。私たち皆が力強い第三天使として生まれ変わる兄弟姉妹となることを心より祈り求めるものである。第2章に続く

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