「愛の犠牲」

 「また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」(エペソ5:2)

 これは、我々のための命の賜物という供え物である。それは、わたしたちが神の望みどおりの者となるためである。すなわち、他の人たちが人の形で表されたキリストを仰ぎ見て、……キリストのようになりたいという願望を抱くようにと導かれるために、彼の品性の香り、純潔な思い、人としての清められた生涯に表された神の属性を放つキリストの代表者―しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない者となるためである。(SDAバイブル・コメンタリー6巻1118)
 なんと熱心にキリストは、わたしたちの救いの働きを遂行されたことであろう!ご自分の汚れのない義の功績を、すべての悔い改め信じる罪人に与えられることによって、堕落した人間に価値を与えようとされたこのお方のご生涯には、なんという熱心が表されたことであろう。キリストは、なんとたゆまず働かれたことであろう!宮と会堂において、町の通りにおいて、市場において、作業場において、海辺で、丘の谷間でこのお方は福音を宣べ伝え、病人を癒された。このお方は贖いの恵みの計画を成し遂げるために、ご自分のすべてを与えられたのである。(天国で43)
 キリストは、ご自分のさかれた体を提供して、神の嗣業を買いもどされた。これは人間にもう一度機会を与えるためであった。「そこでまた、彼は、いつもいきていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。キリストは彼の清い生涯、服従の生活、カルバリーの十字架の死によって、失われた人類のためにとりなしをされた。そして、今わたしたちの救いの君は、単なる嘆願者としてではなくて、戦いに打ち勝った勝利者として、わたしたちのために、とりなしをなさるのである。彼のささげ物は完全なものである。そして、主は、わたしたちをとりなすお方として、神の前で、ご自身の汚れなき功績と神の民の祈りと告白と感謝を盛った香炉を持って、ご自分が制定なさったお勤めをしておられる。これらは、キリストの義の香りとともに、芳しい香りとなって神の前に上る。このようなささげ物はことごとく神に受けいれられる。(キリストの実物教訓136)

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