「キリスト我らの義」

 「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた……。」(ローマ3:25)

 キリストは「主は我らの義」と呼ばれており、信仰を通して各自は「主はわたしの義」と言うべきである。信仰が神の賜物をつかむ時、神に対する賛美がわたしたちの唇にあり、わたしたちは他の人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ということができる(ヨハネ1:29)。わたしたちは失われた者たちに救いの計画について教えることができる。世が罪の呪いの下に横たわっている一方で、主は憐れみの条件を堕落し失望した罪人に示され、このお方の恵みの価値と意味を明らかにされる。恵みは功なくして得られる恩恵である。……さまよっていたわたしたちを探し、群れにもどすためにわたしたちに救い主を送られたのは恵みであった。……
 誰も自分自身を見て、その品性に神に自分を推薦するようなものや、自分が受け入れられることを確実にするようなものを何も見出すことはできない。罪人は御父が世の命のために与えられたイエスを通してのみ、神に近づくことができる。イエスだけがわたしたちの贖い主、弁護人、また仲保者であられる。このお方の内にわたしたちの許しと平安と義の唯一の望みがある。罪に打ちひしがれた魂が正常な状態に回復することができるのは、キリストの血の徳によってである。……
 わたしたちはキリスト以外に何の功績も義も持っていない。わたしたちの罪深さ、弱さ、わたしたちの人間の不完全は、わたしたちがキリストのしみのない義を着せられない限り神の御前に出ることを不可能にしているのである。……
 あなたがキリストの引き寄せに応じ、このお方に結合する時、あなたは救いの信仰を示すのである。……信仰は魂を神の実在と存在に慣れさせ、神の栄光に一筋に生きることによって、このお方の品性、このお方の恵みの素晴らしさをますます認識するようになるのである。わたしたちの魂は、霊的な力に強くなる。それはわたしたちが天の空気を呼吸するからである。……わたしたちは世を超越し、万人にぬきんでことごとく麗しいお方を眺める。そして眺めることによって、わたしたちはこのお方のみ姿に変えられるのである。(セレクテッド・メッセージ1巻331-335)

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