「奥義の奥義」

 「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた』。」(テモテ第一3:16)

 なんという奥義の奥義であろうか!理性ある者がキリストの威光、贖いの奥義を理解するのは難しい。恥ずべき十字架が揚げられ、このお方の手と足に釘が刺し通され、残酷な槍がこのお方の心臓を貫き、贖いの値が人類のために払われた。……
 贖いは尽きることのないテーマであり、わたしたちの熟考に値するものである。それは最も深い思考の理解、最も鮮明な想像の限界を超えている。……
 もしイエスが今日わたしたちと共におられるとすれば、このお方は弟子たちに言われたようにわたしたちにも「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」と言われるであろう(ヨハネ16:12)。イエスは弟子たちの思いの前に深くて生きた真理を開くことを願われたが、彼らの世俗性、彼らのあいまいで不十分な理解力がそれを不可能にした。……霊的成長の欠乏は、キリストから輝き出ている豊かな光線に対して戸を閉ざした。……
 神の御言葉という鉱山で勤勉に働いて、真理の豊かな鉱脈、すなわち各時代もの間隠されていた神の神秘の中に尊い鉱石を発見した者たちは、品性の内に彼らが信じているものの清める力を明らかにすることによって、あらゆる真理の源であられる主イエスを高めるのである。イエスとその恵みは、魂の内なる聖所に納められなければならない。その時、このお方は御言葉と祈りと勧告と聖なる真理の提示の内に明らかにされるのである。(セレクテッド・メッセージ1巻403-405)
 十字架の奥義は、他のすべての奥義を説明する。カルバリーから流れ出る光に照らして見るとき、われわれのうちに恐怖と畏敬の念を満たした神の属性は、美しい、人を引きつけるものに見える。あわれみ、やさしさ、父としての愛情が、聖潔、公平、力と入りまじって見える。われわれは、高くかかげられた神のみ座の威光をながめる一方では、神のご品性の恵み深いあわれみを見て、「われらの父よ」というあの永遠に続く称号の意味を、いままでになく理解するのである。(各時代の大争闘下巻434)

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