「天はどれほど長く苦しまなければならないか」

 「わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:30)

 神ご自身がキリストと共に十字架につけられた。なぜならキリストと御父は一つだからである。(SDAバイブル・コメンタリー5巻1108)
 罪のために創造主が受けられた苦しみを思う人は非常に少ない。全天はキリストと苦しみを共にしたが、しかしその苦悩はキリストが人性をとって現われたときに始まったのでもなければ終わったのでもない。十字架は、罪が初めてあらわれたときから神の心に生じた苦痛を、われわれの鈍い感覚に示すものである。人が正しいことから離れるたびに、残酷な行ないをするたびに、人性が神の理想に到達できないたびに、神は悲しまれるのである。イスラエルが、神から離れた当然の結果として、敵に征服され、残虐と死という災難がふりかかったとき、「主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。」「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、……いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」と言われている(士師記10:16; イザヤ63:9)。
 神のみたまは「みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」とある。「被造物全体が、・・・・共にうめき共に産みの苦しみを続けている」(ローマ8:26,22)とき、限りない天父のみ心は同情に痛むのである。この世界は広いラザロの家(注・貧しい病人の収容所)のようなもので、われわれはその悲惨な光景を心に思うことすら苦痛である。その現実の姿をみつめるとき、重荷はあまりに大きいであろう。しかし神はそのすべてを感じておられるのである。(教育311,312)
 ため息が出るたびに、苦痛を感じるたびに、魂が悲しみに刺されるたびに、その心のうずきは天父の心に伝わるのである。(各時代の希望中巻90)
 世の悲惨と絶望の深さをご存知であるキリストは、同時にその救済の方法もご存知である。……人類は恵みを悪用し、才能を浪費し、神のごとき人間としての品位を失ってはいるが、しかし人類の救済を通して、創造主は栄光をうけなければならない。(教育319)
 神は、罪とその結果を滅ぼすために、最愛のひとり子をあたえ、み子との協力によってこの悲惨な光景を終わらせる能力をわれわれにお与えになっている。(同上312)
 正しく訓練されたわれらの青少年たちから成るこのような働き人の軍勢があたえられるとき、十字架につけられ、よみがえり、まもなくおいでになる救い主の使命は、いかにすみやかに全世界に述べ伝えられることであろう。いかにすみやかに終わりが―苦難と不幸と罪の終わりが、もたらされることであろう。(同上320)

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