第3編 第3章 「聖所の門を閉じなさい」

 
 「第三天使の使命を経験せよ」という主題の中、この章では至聖所の門を開き、聖所の門を閉めるという経験について学んでいきたいと思う。
 1849年ホワイト姉妹は開かれた門と閉じられた門に関する幻を見た。その内容は初代文集で読むことができる。
 「そこで、わたしは、神の戒めと、閉ざされた門に関するイエス・キリストのあかしとは、分離することができないこと、また、神の戒めの重要性が明らかに照り輝き、神の民が安息日の真理のために試練を受けるのは、十戒の戒めを納めた箱のある、天の至聖所の門が開かれた時であるのを見せられた。この門は、1844年に、イエスの聖所における奉仕が終わった時に開かれた。その時イエスは立ち上がって、聖所の門を閉じ、至聖所の門を開き、第2の幕の中に入られた。今彼は、箱のそばに立っておられる。そして、今、イスラエルの人々の信仰はここに向けられている。
 イエスが聖所の門を閉じられたので、だれもそれを開けることはできない。また、彼が至聖所への門を開かれたので、だれもそれを閉じることができないことを、わたしは見た(黙示録3:7,8,補遺及び付録参照)。・・・現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた。そこには箱があって、その中には主の指で書かれた十戒の石の板が納められている。」―初代文集p.105
 イエスが聖所の門を閉められ、至聖所の門を開かれたということに何の意味が含まれているのであろうか?なぜ聖所の門を閉じ、至聖所の門が開かれなければならなかったのであろうか?聖所の門を開いたままにして、至聖所の門を開いたらだめなのだろうか?このみ言葉は深く考える価値のあるものである。

踏みつけられた聖所

 私たちはまずダニエル書8章で預言された踏みつけられた聖所について研究しなければならない。
 「それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、『常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか』と。彼は言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』」―ダニエル8:13,14
 ダニエルが預言した「聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられる聖所」は地上にある聖所ではなく天にある聖所を意味している。ダニエルが書いた2300の夕と朝の預言と聖所の清めは、ローマ・カトリック教会の迫害が終わり、2300の夕と朝が終わる1844年に及ぶ預言を意味しているからである。
聖所真理はどのように神が人間の罪を許され、救いにいたることができるかを示している福音の模型であった。
 しかしローマ・カトリック教会は救いの門であり、唯一の仲保者であられるキリストに代わり、罪人に過ぎない教皇と彼が任命した神父を罪人の仲保者として立てて、キリストの仲保権を奪い取った。それだけでなく、ただキリストの十字架の義を信じることによって罪は許されて救いにいたるという真理が、長い巡礼の旅と難行苦行偶像崇拝、大金納入などによって罪が許され、救いにいたるという迷信を信じ込ませることによって、天の聖所を踏みつけたのである。
 そしてまたローマ・カトリック教会は人々を支配し、魂を欺瞞の中に捕えておくために信徒たちの手から聖書を奪い、全ての魂を無知と暗闇に閉じ込めた。このことによって全ての人々は神を見出して拝むことができなくなり、天と地の間のつながりが切られたのである。哀れな魂たちは聖所を見失うことによって、自らの力で誤謬を識別することが不可能となった。このようにローマ・カトリック教会によって聖所の庭の門が閉ざされ,天の聖所は踏みつけられたのであった。
 「信仰は、真の基礎であるキリストから、ローマ法王へと移された。人々は、罪の許しと永遠の救いを求めて神の子によりたのむかわりに、法王や、法王が権力をゆだねた司祭や司教たちにたよった。彼らは、法王はこの地上における彼らの仲保者であって、法王によらなければだれも神に近づくことができない、と教えられた。さらに、法王は神に代わって彼らの前に立つ者であるから、絶対に服従すべきであると教えられた。」―各時代の大争闘上巻p.50
 「彼らは、法王を彼らの仲保者として仰ぐだけでなく、罪を贖うために自分自身の行いに頼らねばならないと教えられた。長い巡礼の旅、難行苦行、聖遺物崇拝、教会堂・寺院そして祭壇の建築、教会への大金納入―これらの行為、またそれに類した多くの行為が、神の怒りを和らげ、神の恵みにあずかるために要求された。」―各時代の大争闘上巻p.52

閉ざされていた聖所の門が開かれる

 これらのすべてのことが不法の子によって成就されたが、それはみな神の救いの計画の中にあって許されたことであった。しかし神の救いの計画の時計が聖所回復の時期を知らせたとき、踏みつけられていた天の聖所の門は開かれ始めた。マルチン・ルターの宗教改革運動がそれである。
 ある日ルターは免罪を得るためにピラトの階段をひざまずいて上っていた。すると突然「義人はその信仰によって生きる」というみ言葉が雷のような大きい声で彼の耳に聞こえてきたように思われた。ルターは怖れと恥の念にかられて急いでそこを立ち去った。
 それ以後、彼は行いによって救いを得るというカトリックの教えが聖書と矛盾しているのを見出して「義人はその信仰によって生きる」という聖書の真理を叫び始めた。救いはキリストの十字架にあるということ、そしてその義を信じることによって罪人は許され、救いを得ることができるという聖書の確実な真理を伝えるようになった。
 これはローマ・カトリック教会によって閉ざされていた聖所の庭の門が開き始め、庭の燔祭の祭壇が回復されたということを意味していた。天の聖所の回復運動は燔祭の祭壇の真理が回復されることから始まったが、聖所の清めのための回復の働きはここで留まるのではなく、ルターの後を次いで多くの宗教改革者たちが立ち上がり、踏みつけられていた聖所の真理を回復させたのである。聖所の庭の門が開かれ、庭の真理である信仰によって救われるという義認の福音が回復されることによって、聖所の最初の部屋の門が開かれ、信仰による聖化の真理である清めの真理が光を放ち始めた。特にウェスレー兄弟によって聖化つまり清めの真理が聖所の確実なみ言葉として全世界に証されたのである。
 マルチン・ルターによって回復され始めた天の聖所は聖所の庭の真理である義認の真理からいっそう高い聖化の真理が公開されることによって、天の聖所の最初の部屋も回復されたのである。

清めの真理が証される

 「ウェスレーと彼の仲間は、真の宗教は心に根ざすものであって、神の律法は、言葉や行為と同様に思想にまで及ぶものであることを悟った。外部の行状が正しいのと同様に、心の聖潔の必要を確信して新しい生活に入ろうと熱心に努めた。彼らは、非常な努力と祈りによって、生来の心の悪を抑制しようとした。彼らは、自己犠牲、愛、謙そんの生活を送り、彼らが何よりも望んだもの―すなわち、神の恵みを受けることができる聖潔―に到達するために役立つことはどんなことでも、非常な厳格さと正確さをもって実行した。」―各時代の大争闘下巻p.322
 「彼は、相変わらず、厳格な克己の生活を続けた。しかし、今それは、信仰の根拠ではなくて、結果であり、聖潔の根、ではなくて、実、であった。キリストによって与えられる神の恵みは、キリスト者の希望の基礎であり、この恵みは、服従となって現われる。ウェスレーの生涯は、彼が受けた大真理―キリストの贖罪の血を信じる信仰による義認、人の心を変える聖霊の改変力、そして、キリストの模範と一致した生活となって実を結ぶこと―の宣教のためにささげられた。」―各時代の大争闘下巻p.325
 このような清めの真理は激しい反対をされた。多くの反対者たちは清めの真理を伝える者は天への道をあまりにも狭くしていると非難し、清めの真理を伝えるものには愛がないと非難した。
 このように聖化の真理は福音を信じるという名目的なクリスチャンたちによって迫害された。サタンは天の聖所の最初の部屋の門を開くことできないように彼の僕たちを通して働いたが、神の忠実な僕たちによって天の聖所の門が開かれるようになったのである。改革者ウェスレーは敵の非難の訴えに対して次のように応じた。
 「彼は、すべての人に向かって、『わたしは、あなたの好みに合わせて聖書を下げることはできない。あなたがそこまで上って来なければならない。さもなければ、永遠の滅びである』と言わなければならない。よく『彼らには愛がない』という叫びがきかれるが、それは実はこうしたことに基づいている。」―各時代の大争闘下巻p.341

救いの真理と開かれた聖所

 「義認」と「清め」の真理は太陽の光のようであって、どんな暗闇もこれを公然と否定することはできない。たとえ人は清められた生涯を送ることができないと考えたとしてもこの真理を止めることはできないであろう。
 今やほとんどの国においてキリスト教は知られている。都市と田舎に立てられている十字架は「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)というメッセージを伝えている。それだからこの救いの真理は全ての天下に伝えられたものであるといえる。イエスを信じれば救いを得るというキリストの教えは知られている。しかしほとんどの人は知ってはいるが信じないのである。
共産主義国家もイエスを信じれば永遠の命を得るというキリスト教の真理を知っている。しかし信じないだけである。また仏教と多神教の国もイエスを信じれば永遠の命を得るというキリスト教の真理を知っている。しかし信じていないだけである。
 清めの真理つまり聖化の福音も同様である。世はみな知っている。クリスチャンは清められた生涯を生きなければならないということを知らない人はない。それだから世はクリスチャンたちの一言の言葉と一回の行動の失敗も許そうとしない。彼らは必ずやイエスを信じるものは清められた生涯を送ることができると講義するのである。これは何を意味しているのであろうか?これは世も神を信じるものは清められた生涯を生きなければならないという聖化の真理をすでに知っていると言う意味である。
 聖化の真理はすでに世に伝えられた。世もクリスチャンたちは清い生活をするべきであるという真理を知っている。それだから神は清められた生涯を生きないものを審判なさることができるのである。
 神を拝むクリスチャンが清めの生涯を生きないならばどのようにして神の審判からのがれることができようか?それは神のみ言葉とその能力を信じないためである。
 このように聖化の福音も義認の真理と共に全世界に伝えられるであろう。だれも弁解することができないほど明らかな使命である。この真理は特に1844年を前後にして真のクリスチャンがみな経験することができた。第一と第二天使の使命によって真の義認の能力と清めの奥義を経験することができたが、それはイエスが再び来られると言う使命によってであった。聖なるイエスに会わなければならなかった再臨信徒たちはみな自分を清められざるをえなかったのである。それだから全世界は清めの生涯が何であるか見ることができたのである。
 この真理は真の再臨信徒によってすでに証された真理である。世はみなこれを見た。真の再臨信徒が清めの生涯をおくることができたということは、全ての人々もそのように生きることができるという確実な証拠となる。それだから神は清められた生涯をおくらない全ての人々を審判なさるのである。
それだから1844年10月22日イエスは天の聖所の門を閉ざされ至聖所の門を開かれたのである。
 「そこで、わたしは、神の戒めと、閉ざされた門に関するイエス・キリストのあかしとは、分離することができないこと、また、神の戒めの重要性が明らかに照り輝き、神の民が安息日の真理のために試練を受けるのは、十戒の戒めを納めた箱のある、天の至聖所の門が開かれた時であるのを見せられた。この門は、1844年に、イエスの聖所における奉仕が終わった時に開かれた。その時イエスは立ち上がって、聖所の門を閉じ、至聖所の門を開き、第2の幕の中に入られた。今彼は、箱のそばに立っておられる。そして、今、イスラエルの人々の信仰はここに向けられている。
 イエスが聖所の門を閉じられたので、だれもそれを開けることはできない。また、彼が至聖所への門を開かれたので、だれもそれを閉じることができないことを、わたしは見た(黙示録3:7,8,補遺及び付録参照)。…現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた。そこには箱があって、その中には主の指で書かれた十戒の石の板が納められている。」―初代文集p.105

閉ざされた聖所の門

 「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」(黙示録3:7,8)と言われたダビデのかぎを持たれるイエスが聖所の門を閉ざし、至聖所の門を開かれた。なぜ聖所の門を閉ざされたのであろうか?そうである。すでに我々が学んだように、聖所真理である救いの真理、つまり義認の福音と清めの福音はすでに全世界に伝えられたからである。
 聖所の門を閉ざされたというみ言葉は義認と清めの福音を伝えてはならないという意味ではない。また義認の真理と清めの福音は必要ないという意味でもない。いまやこの福音は全世界に伝えられ、あかしされ、成就されたという意味である。これが聖所の門は閉ざされたというみ言葉の真の意味である。しかし聖所の門が閉ざされると同時に開かれた門がある。それが至聖所の門である。
 再臨信徒たちよ!
 まだ世が知らない福音がある。
 まだ世が聞いてない福音がある。
 まだ世が見ていない福音がある。
 その福音は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)という福音である。
 その福音は「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)という福音である。
 この福音は聖徒の良い行いによって見せなければならない永遠の福音である。「彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(黙示録19:8)。
 この使命が至聖所の使命である。決して罪が許されない所、聖なる所で最も聖なる所、シェキーナの栄光があって罪が消される所、すなわち神の栄光の福音である。
 我々の天の父が完全であられるように、我々も完全な者とならなければならないというのが、我々が世に示さなければならない福音である。全世界が我々の生涯に表される神のご品性の栄光を見るようにしなければならない。このことは可能なことである。なぜなら主が至聖所の門を開かれたからである。
 この世も私たち人間が罪を犯さない完全な生涯を送ることができるという福音を聞き、悟り、そのあかしを見られなければならない。その時神は完全でない全てのものを審判することがおできになるのである。主が至聖所の門を開かれた目的がこれである。この使命は聖所真理である義認と清めの福音と同じように世に伝えられなければならないものである。
 開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない方が、1844年10月22日、聖所の門を閉じ、至聖所の門を開かれたという事実を忘れてはならない。
 「わたしは、第三の天使が、上の方を指さして、失望した人々に、天の聖所の至聖所への道を示しているのを見た。信仰によって彼らが至聖所に入る時に、彼らはイエスを見出して、新たな希望と喜びを味わうのである。」―初代文集p.415
 「第三天使のメッセージを受け入れた人々の多くは、前の二つのメッセージの経験を持っていなかった。サタンは、これを知っていて、その邪悪な目を光らせて、彼らを陥れようとした。 しかし、第三の天使は、彼らを至聖所に導いた。そして、過去のメッセージの経験を経た人々も、彼らを天の聖所へと指さしていた。多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所に入ったのである。」―初代文集p.417

現代の真理の敵

 「現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた。そこには箱があって、その中には主の指で書かれた十戒の石の板が納められている。」―初代文集p.105
 至聖所の使命は完全であれと言う使命である。なぜならば至聖所は完全な所であるからである。至聖所はすべてが完全である。十戒は神の御品性の写しであり彼の御品性は完全である。それだから「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われたのである。
 「現代の真理」の敵は、神の律法を完全に守ることはできないと言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、人間は弱い存在であるので罪を犯さない生涯を送ることはできないと言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、弱い存在である人間は失敗を続けるしか方法がないと言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、先天的後天的悪への傾向は克服できないと言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、人間は決して完全になることはできず、ただ最善を尽くしてみて、残りの足りないところは主が補足してくださるであろうと言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、人間がイエスのように罪を犯さない勝利の生涯を生きることは不可能であると言うであろう。
 「現代の真理」の敵は、至聖所の完全な真理を伝える者は狂信者であり、極端な者であると言うであろう。
 しかし、そのように教える教会は「現代の真理」の敵である。このような教会と個人は、主の閉ざされた聖所の門を開き、1844年に開かれた至聖所の門を閉めようとする「現代の真理」の敵である。

世に伝えなければならない使命

 「サタンは…キリストに従う人々を欺こうと、いつもけんめいになっている。しかしイエスは、彼の傷ついた手と砕かれた体をもって、彼らのために嘆願される。そして、彼に従ってくるすべての者に『わたしの恵みはあなたに対して十分である』と宣言されるのである(Ⅱコリント12:9)。『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである』(マタイ11:29,30)。それだから、だれでも、自分たちの欠陥は不治のものであると思ってはならない。神は、それらに打ち勝つ信仰と恵みをお与えになるのである。」―各時代の大争闘下巻p.223
 「サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した。事実、自分の力では、わたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合する時、人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである』(ヨハネ1:12)。この力は人間には備わっていない。それは神の力である。魂はキリストを受け入れる時、キリストのような生活を送る力を受ける。 神は、神の子らに完全を求められる。神の律法はご自身の品性の写しであり、またすべて品性の標準である。」―キリストの実物教訓p.294
 「キリストの義は、心中に一つでも愛している罪があれば、それをおおうことをしない。人は、心の中で律法に違反していても、外面的な違反行為を犯さなければ、世間の人々から高潔な人物と見なされるだろう。しかし、神の律法は心の秘密を見ぬく。すべての行為は、その動機によってさばかれる。神の律法の原則に調和している事柄だけが、さばきの時に立ちうるのである。」―キリストの実物教訓p.295
 「神はサタンの罪を許容されなかった。またアダムやカインの罪をも許されなかった。同様に、いかなる人の子の罪もお許しにならない。神はわたしたちの罪を黙認したり、品性の欠陥を看過したりなさらない。神はわたしたちに、そのみ名によって勝利することを期待されるのである。」―キリストの実物教訓p.296
 「真理は心に植えつけられなければならない。それが頭脳を支配し、感情を調節しなければならない。人の品性全体が神の言葉の印を押されなければならない。神のみ言葉の一点一画が、日常生活の中にあらわされなければならない。天の性質にあずかる者は、神の義の標準であるその聖なる律法と調和する。神はこの規準によって人間の行為をおはかりになる。これが審判における品性の試金石となる。」―キリストの実物教訓p.293
 「キリストはその全き従順によって、あらゆる人間が神の戒めに従うことができるようになさった。人が自分自身の心をキリストにささげる時、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストの命を生きる。これが、キリストの義の衣を着ることである。」―キリストの実物教訓p.292
 「だれでも自分の活動範囲内で、クリスチャン品性の完成を目指して、果たせないことはない。いのちと信心とにかかわるすべてのことを信者たちが受けられるように、キリストの犠牲によって準備がなされた。神はわれわれが完全な標準に到達するように求めておられ、キリストのご品性の模範をわれわれに示しておられる。救い主は、悪に抵抗した生活を貫き通して完全なものとされたご自身の人性によって、人間が神と協力すれば、この世において品性の完成に到達できることをお示しになった。これは、われわれも完全な勝利を得ることができるという神からの保証である。」―患難から栄光へ下巻p.231
 「神は純潔と清め意外には何もお受け入れにならない。品性の一つの汚れ、ひとつのしわ、ひとつの欠点でさえも、栄光と富が満ちあふれる天に永遠に入れないようにする。」―教会への証2巻p.453
 「イエスの人間生活に一つでも欠点があれば、あるいはイエスの人性が恐るべき試練に一度でも耐えられなかったら、神の小羊は不完全な供え物となり、人類のあがないは失敗したのである。」 ―各時代の希望下巻p.246
 「イエスは罪に同意されなかった。一つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエス聖霊の内住によって戦いに備えられた。しかもイエスはわれわれを神のご性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。」―各時代の希望上巻p.135

現代の真理

 我々の住んでいる現代の真理は至聖所の福音である。この時代に伝えなければならない「現代の真理」は完全であれとの福音である。この時代に世に叫ばなければならない福音は信仰によって罪を犯さない生涯を送ることができるというものである。
 再臨信徒たちよ!世のほとんどの人々はキリストを信じれば救われるという福音を知っている。清い生涯を生きなければならないという福音も知っている。しかし人が罪を犯さないで完全な生涯を送ることができるという福音はまだ知らずにいる。現代の再臨信徒たちはこの真理を伝えるために召された民であるということを知っているのであろうか?彼らはこの真理を世に示す為に選ばれた民であるということを知らなければならない。
 人々が信じても信じなくてもこの使命を伝えなければならない。審判の日もし人が罪を犯さない完全な生涯を生きることができるという福音を聞いたことがないというならば、また、そのようなあかしを見たことがないと言うならば、どのように神は彼らを審判することができるであろうか?
 であるから光を先に受けた再臨信徒たちは、この使命を世に伝えなければならない。そして信仰の生涯を通して神の栄光を見せなければならない。この義務と特権が私たちに与えられているのである。この御国の福音が全世界に伝えられ、あかしされるとき、福音の働きは終わるであろう。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)。
 その時にわれらの大祭司であられる主は至聖所の門を閉ざされるであろう。そのようにして「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(黙示録22:11)との宣言がだされるであろう。
 再臨信徒たちよ!自分が信じもしない使命をどのように伝えることができるであろうか?自分が従いもしない真理をどのようにあかしすることができるであろうか?悔い改めず、罪を心に抱いていながらどのように義なる神の律法を守ることができるであろうか?神に心を捧げて真に生まれ変わる経験なしにどのように神の能力を与えられることができるのであろうか?
 再臨信徒たちよ!不完全であるということ自体が罪となるということを知っているであろうか?このような明白なみ言葉に対する不信は罪であるということを知っているであろうか?心をつくし、精神をつくし、思いをつくしてこのみ言葉を信じず、心からの服従の生涯を生きないならば、また二心のまま神を拝むならば、決して審判から逃れることはできないであろう。
 我々は自らの信仰の中に不完全を許してはならない。我々の生涯の中に失敗を許してはならない。もちろん肉の心によって失敗することがあるかもしれない。しかしさらに重要なことは失敗しない事が可能であるという事実である。これが至聖所の信仰である。
 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」―ヘブル12:1,2
 我々には多くの証人と、我々を完全にしてくださる力をもたれている救い主がおられる。
 以上の理由によって主は、聖所の門を閉じて至聖所の門を開かれたのである。
 再臨信徒たちよ!全世界は福音を聞くことではなく、福音を見ることを求めている。主も目で見ることのできる完全な福音を世に伝えることを求めておられる。つまり、栄光であられる神の御品性が人間を通して全世界を明るくするのを期待しておられるのである。この栄光に満ちた招きに皆「アーメン」と言って答えようではないか?「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:12)。アーメン。
…4章に続く。

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