「わたしたちの明かりのための油」

 「思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。」(マタイ25:4)

 二種のおとめたちが待っていたことは、主を待望すると公言する人びとも二種あることを示している。彼らは純粋の信仰を表明するので、おとめと呼ばれている。あかりは、神のことばを代表している。……油は、聖霊の象徴である。……
 たとえのなかで、十人のおとめは、みな、花婿を迎えに出た。だれもがあかりと油の器をもっていた。しばらくの間は、彼らの間になんの相違も見られなかった。キリスト再臨直前の教会もその通りである。すべての者が聖書の知識を持っている。すべての者がキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもって彼の出現を待つのである。しかし、たとえにあったように、現在も同じである。待つ時間が長びいて信仰が試みられる。そして、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がしたとき、準備のできていない者が多い。……彼らは聖霊に欠けているのである。神の聖霊がないならば、どんなにみことばの知識があっても役に立たない。聖霊を伴わない真理の理論は、魂を生かすことも、心を清めることもできない。……聖霊によって、目が開かれるのでないならば、人は真理と誤りとを見分けることができず、サタンの巧妙な誘惑におちいってしまう。……
 神の恵みは、すべての魂に豊かに与えられた。……品性は譲渡することができない。だれも他の人に代わって信じることはできない。……聖霊の働きの実である品性を人に分与することはできない。……
 「さあ、花婿だ」という叫びを聞いて目をさまし、それから油のきれたあかりに油を補って、主を迎える用意をすることはできない。たとえの中で、思慮深い女たちは、あかりとともに、器の中に油を持っていた。あかりは、彼女たちが待っていた夜の間、あかあかと燃え続けた。……そのように、キリストの弟子たちは、世界の暗黒に光を輝かさなければならない。神のことばは、聖霊の働きによってそれを受けいれる人の心を変える光になる。人びとの心に、みことばの原則を植えつけることによって、聖霊は、彼らの心の中に神の性質をめばえさせる。神の栄光の光、すなわち、神の品性が、神に従う者のなかに輝き出なければならない。(キリストの実物教訓385-390)
 神に、このお方の恵みの油を豊かに与えて下さるように求めなさい。(牧師への証104)

 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓