「神はわたしたちが生きられるように御子を死ぬためにつかわされた

  「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(第一ヨハネ4:10)

 「贖いの中で神は犠牲、すなわち、はかりしれないほど広く深く高い犠牲のうちに、ご自分の愛を表された。『神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった…。』
 アダムの罪が人類を希望のない悲惨な状態に陥れたとき、神はご自身を堕落した人類から切り離すこともおできになった。彼らを罪人として当然の取り扱いをなさることもおできになった。憤りの杯をこの世界に注ぐようにと天のみ使いたちに命じることもおできになった。このお方はご自分の宇宙からこの暗いしみを取り除くこともおできになったのである。しかし、このお方はそうはなさらなかった。堕落した人類をみ前から消し去る代わりに、もっと近づいてこられたのである。このお方はご自分の御子をわたしたちの骨の骨、肉の肉となるために与えて下さった。『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。・・・めぐみとまこととに満ちていた』。人に対する人としてのご自分の関係を通してキリストは人を神へ近く引き寄せられた。神性を人性という衣でおおい、全宇宙の前に、堕落したことのない世界の前に、神がどれほど人の子らを愛しておられるかを示された。
 人に対する神の賜物は、あらゆる計算を超えていた。何一つ差し控えられたものはなかった。神は、人類に対してもっと多くのことができたはずだと、言われることをお許しにはならなかった。キリストという賜物の中には神は全天をお与えになったのである。
 世界が造られる前にみ父と共におられた至高者が、人類を高めるために屈辱を甘受された。わたしたちが天のみ座を見ることができるように、またそのみ座の上に、高く掲げられたお方、すなわち人間の姿をとって、苦しみ、むちで傷つけられ、わたしたちの不義のために砕かれるためにこの世にこられたお方を見上げることができるようにと、預言は幕をあげる。」(原稿21,1900年)
 「神はこのように人に対するご自分の愛を示された。神は、ご自分の道徳的なかたちを人のうちに回復することができるようにと、キリストと共に全天をお与えになった。・・・莫大な神の恵がすべての者のために備えられている。」(世界総会冊子4,1899年)

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