「ラザロは神の栄光を証するためによみがえった」

  「イエスはそれを聞いて言われた、『この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである』。」(ヨハネ11:4)

 「ラザロは病気であると聞いて後、二日間キリストが遅れたのはご自分の本分を怠ったのでも拒絶されたのでもなかった。・・・これはわたしたちにとって励ましとならなければならない。・・・わたしたちは主にあって安息を得るべきであり、この方を忍耐強く待たなければならない。わたしたちの祈りに対する答えは、わたしたちが願うほどすばやく来るとは限らず、またわたしたちが願ったその通りになるとも限らない。しかしご自分の子らにとって何が最善であるかを知っておられるお方は、わたしたちが信仰を失ったり、失望してしまわなければ、わたしたちが求めるよりもはるかに良いものを与えて下さる。」(ユース・インストラクター1899年4月6日)
 「キリストはベタニヤの愛する者たちのことだけを考えるのではなく、弟子たちの訓練も考慮しなければならなかった。み父の祝福がすべての人をおおうことができるように、弟子たちは世に向けて天父を代表する者とならなければならなかった。彼らのためにキリストはラザロが死ぬことを許された。キリストがラザロを病気から健康へ回復されたなら、キリストの神性についての最も明確な証拠である奇跡が行われなかったのである。
 キリストが病室におられたなら、ラザロは死ぬことはなかった。なぜならサタンはキリストに打ち勝つ力はなかったからである。生命の与え主の臨在のもとでは、死はラザロに死の支配のもとに下るのを許されたので、悲しんでいた姉妹は兄弟が墓に横たえられるのを見た。二人が亡くなった兄弟の顔を見る時に、贖い主への信仰が激しく試みられることをキリストは知っておられた。このようにしてこのお方は二人がもっと多くの実をつけるようにと枝を刈りこまれたのである。二人が今経験している戦いのゆえに、彼らの信仰は、はるかに大きな力で輝き出ることをキリストは知っておられた。」(ユース・インストラクター1899年4月13日)
 「神のみちびきのみ手を求めて手をさしのべているすべての者にとって、最も落胆している時が、神の助けが一番近い時である。・・・誘惑のたびに、試みのたびに、主はそこから彼らをもっと固い信仰、もっと豊かな経験をもって、導きだされる。」(各時代の希望中巻343)

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