「彼は誤解され、たびたび一人で立たれた」

  「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み、憤りによって彼らを踏みにじったので、彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。」(イザヤ63:3)


 「もし彼らがイエスを天からくだられたお方として信じ、イエスと協力して神のみわざをなしたのだったら、この地上の肉親関係はどんなにかキリストの支えとなっていたことだろう。彼らの不信はイエスの地上生涯に暗い影を投げた。それは、イエスがわれわれのために飲みほされたあの苦悩のさかずきのにがさの一部分であった。・・・兄弟たちの短いはかりなわでは、イエスが果すためにおいでになった使命をはかることができなかった。したがって彼らは、こころみのうちにあられるイエスに同情することができなかった。彼らの下品で、物事のわからないことばは、彼らがイエスの品性を真に認識していないこと、したがって神性が人性にまじりあっていることをみとめていないことをあらわした。彼らは、イエスが悲しみに満たされておられるのをよくみかけた。だが彼らの精神とことばは、イエスを慰めるどころか、かえってその心を傷つけた。・・・
 こうしたことのために、イエスの歩まれる道はいばらの道だった。キリストはご自分の家庭での誤解に非常に心を痛められたので、そうした誤解のないところへ行かれることがイエスにとっては救いだった。イエスがたずねて行くことを好まれた家庭が一つあったが、それはラザロとマリヤとマルタの家庭だった。この家庭の信仰と愛の雰囲気の中でイエスの心は休まった。それでも、イエスの天来の使命を理解し、イエスが人類のために負っておられる重荷を知ることのできる人はこの地上に一人もいなかった。イエスはたびたび一人でおられて、天父と交わることだけに心の救いを見出された。
 キリストのために苦しみを受け、自分の家庭においてさえ誤解と疑惑に耐え忍ばねばならない者は、イエスも同じことに耐えられたのだと思うことによって慰められる。イエスは、彼らに対して憐れみの心を動かされる。イエスは彼らに、イエスを友とし、イエスが経験されたように、天父とのまじわりのうちに心の休みをみいだすようにと命じられる。キリストを自分自身の救い主として受け入れる者は、みなし子としてとり残され、一人で人生の試練に耐えねばならないようなことはない。キリストは彼らを天の家族の一員として受け入れて下さる。キリストは、ご自分の父を彼らの父として呼ぶように命じておられる。彼らは神の心にとって愛する子供たちであり、最もやさしく、いつまでも変らないきずなによって神にむすばれているのである。神性が人性よりもすぐれているように、神は、父や母が無力なわれわれに対して感じたよりもはるかにまさったやさしさを彼らに対して感じておられる。」(各時代の希望中巻43〜45)