136「再臨信徒が味わった失望」


 「すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言った、『さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開かれている巻物を、受け取りなさい。』そこで、わたしはその御使のもとに行って、『その小さな巻物を下さい』と言った。すると、彼は言った、『取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。』わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。」黙示録10:8―10
 八節にはヨハネ自身が教会の一代表者として行動しているが、多分これはこの運動に際して教会の経験すべき特別の事実を指すものであり、しかも神はこれを記録させるにあたり、この場合、天使を象徴として用いなかったように思われる。使命を極めて端的に宣布し、教会の経由すべきこれと関係したなんらかの特別な経験を含まない場合には、使命宣伝に従事する宗教家を代表する天使を用いてもよいが、(黙示録十四章はその一例である)教会のなんらかの特別な経験を表示する場合には、これとは別の表現法が用いられねばならないのである。そしてこのような場合にはこのためにある人物を代表者とするという事はきわめて適切な事であり、それゆえヨハネも象徴的代表として活躍させられているのである。またヨハネの前に現れた天使は、秩序―神の一切の事業は皆この秩序に従っている―の中にこの使命を表す為にこれを管理するために遣わされた神よりの使者を代表する。つまりその使命がどのようなものか、どこからきたものかを示す為に紹介されているのである。
 これらの聖句に示される著しい成就を親しく体験する人々―キリスト再臨が間近であるとの喜ばしい使命に接し、蜜のような甘さに勝って快い真理であると非常に喜び、定められた時である1844年に到るが、主は来られず、そのために非常な失望と悲嘆をなめた人々である。これは彼らの食べた小さな巻き物の解釈上に誤りがあった為で、そのために彼らにとって最初は蜜のように甘かったものが、腹に入るとたちまち苦いものと変化するのを彼らは経験しなければならなかったのである。しかしながら耐え忍んでこのような消化の過程を通過する者たちは、間もなく彼らの誤りは時に関してではなく、事件に関してであることを発見し、天使が彼らに与えたものは彼らを死にいたらしめるものではなく、大いに彼らの栄養となり、力となるものであるということを認めるようになったのである。(このような経験についてはエレミヤ15:16−18を参照のこと)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村