「人間の肉体を取られた神」

  「そして言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

 私達は、深淵な事柄を学ほうと思うなら、地において、あるいは天において、かつて起こった最もすばらしい事柄、すなわち神のみ子の受肉に私達の心を向けよう。(7BC904)
 キリストだけが、神性をあらわすことができた。…神ご自身が人類にあらわされなければならなかった。これをなすために、私達の救い主はご自分の神性に人性をまとわれた。主は人間の器官をおとりになった。なぜならこうすることによってのみ彼は人間に理解され得るからである。人間のことは、人間だけにしかわからないのである。救い主は、神がご自分のために用意された人間のからだを通して、神のご品性を表わされた。(7BC24)
 もし、キリストが神のお姿で来られたなら、人間はその光景に耐えることができなかった。きわだった相違が余りにも苦痛を与え、栄光は余りにも圧倒的すぎたであろう。人間は一人の純潔な輝かしい天使の前ですら、栄光に耐え得るものではない。それゆえキリストは天使の性質をもおとりにならなかったのである。主は人間の姿をとって来られたのである。(5BC1131)
 彼を眺める事によって私達は、抑制され、和らげられた栄光を人間に投げかけられるために、人性で神性を包まれた見えない神を見るのである。それゆえ私達の目は、主をじっと見つめることができ、私達の魂は主のやわらげられない輝きによって、消滅させられることがないのである。私達は、私達の創造主であり、贖い主であるキリストを通して神を見るのである。信仰によってイエスを瞑想し、人間と、永遠のみ座の間に立っておられる主を見ることは、私達の特権である。主は私達の祈りとささげものを、神に対する霊的犠牲としてささげてくださる私達の弁護人である。イエスは、偉大なる無傷のなだめの供え物であり、彼の功績を通して、神と人間は、互いに交わることができるのである。キリストは、永久にご自分の人性を保たれる。主は私達人類の代表者として、神の前に立たれる。私達が、主の義という礼服を着せられる時、私達は、主と一つになる。そして、主は、私達のことを「彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である」と私達について言われる(黙示録3:4)。主の聖徒達は、その間にベールなしに栄光に包まれた主を見るであろう。(7BC925)



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