「生ける水」

 「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにぽかならない。」(第一コリント10:4)

 キリストは二つの型を結合されている。彼は岩であり、生きた水である。 この同じ美しく、意義深い象徴が、聖書全体に用いられている。キリストが来られる幾世紀も以前に、モーセは彼を救いの岩としてさし示した。詩篇記者は、彼のことを「わがあがないぬし」「わが力の岩」「わたしの及びがたいぼどの高い岩」「のがれの岩」「わが心の力」「わが避け所の岩」と歌っている。ダビデの詩のなかで主の恵みは、天の羊飼いが、その群を導かれる緑の牧場のなかの冷たい「いこいのみぎわ」としても描かれている。また「あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる、命の泉はあなたのもとにあり」と彼は歌った。エレミヤにとって、キリストは「生ける水の源」であり、ゼカリヤにとっては「罪と汚れとを清める一つの泉が…開かれる」のであった。
 イザヤはキリストを描写して「とこしえの岩」また「疲れた地にある大きな岩の陰のよう」であると言った。そして彼は尊い約束を記録し、イスラエルのために流れた、生きた水のことを、まざまざと思い起させている。「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは彼らを捨てさることがない」「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」「荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」との招待が発せられている。また聖書の終りのほうでも、この招待が繰り返されている。生命の水の流れは「水晶のように輝」き、神と小羊のみ座から流れ出ている。「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」という恵み深い招声は各時代を通じて響きわたっているのである。(人類のあけぼの下巻p10,11)。
 #聖句:申命記32:15,詩篇1 9:14,62:7,61:2,71:3,73:26(文語訳)94:22,23:2,36:8,9.箴言18:14,エレミヤ2:13,ゼカリヤ13:1,イザヤ26:4,32:2,41:17,44:3,35:6,55:1,黙示録22:1.17.

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