「キリストは試みられ、苦しまれた」

  「確かに、彼は天使の性質を帯びることをなさらずアブラハムの子孫をご自身のものとされた。」(ヘブル2:16英訳)

 私達はキリストの服従そのものを主の特別な神性によって、特別に身につけられた何かであると考える必要はない。なぜなら主は人間の代表として神の前に立ち、人間の身代わり、また保護者として試みられたからである。もしキリストが、人間が持つことの許されない特別な力を持っていたならば、サタンはこの問題を利用したであろう。キリストのお働きは、サタンの主張する、人に対するサタンの支配を取り去ることであった。そして、主は人間、すなわち一人の人間として試みられ、人間の服従を示すという方法においてのみ、これをなすことができたのである。(7BC930)
 私達は、キリストは「試練を受けて苦しまれた」(ヘブル2:18)というみ言葉の意味を充分に理解できたであろうか。主は罪の汚れはなかったが、主の聖なる特質である純化された感性は悪との接触で、言葉であらわすことのできない苦痛を受けられた。彼は人間の性質を取っておられたが、大背教者と顔と顔を会わせ、単独で主のみ座の敵に対抗された。単に心配だけでなく、キリストは誘惑の力に負けるということもあり得たのである。
 サタンは人間の心の中に、何か足場を得ることのできるある点を知っている。ある罪深い欲望が大事にされる。それによってサタンの誘惑がその力をあらわす。しかし、キリストは、ご自身について、「この世の君が来る・・・だが、彼はわたしに対してなんの力もない」(ヨハネ14:30)と宣言された。誘惑の嵐が主を襲った。しかしそれらは主を神に対する忠誠から引き離すことはできなかった。キリストに従う者はすべて、彼らの主を攻撃したのと同じ悪意をもった敵と遭遇しなければならない。驚くような巧みさでサタンは自分の誘惑を人々の環境や気質、また精神的、道徳的傾向や強い感情に合わせてくる。サタンは人の子達の耳に、世の快楽や利益や名誉に注意を向けるようささやいている。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましよう」と。私達はキリストを見上げ、キリストが抵抗されたように抵抗しなければならない。もしも主が勝利されたように私達も勝利したいのなら、私達は主が祈られたように祈り、主が悩まれたように悩まなければならない。(RH1887年11月8日)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村