「天の軍勢の驚き」

 「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有り様は人と異ならず。」(ピリピ2:7)

 私達一人一人が、人性をとられたキリストのご生涯の意味を知ろうと研究するのは、重要なことである。それは、私達にとってどのような意味があるのであろうか。すなわち、神のみ子はなぜ天の宮廷を去られたのであろうか。なぜ主は、ご自分の命令で、行ったり来たりする天の使たちの指揮官としての地位から降りて来られたのであろうか。なぜ主は、ご自分の神性に、人性を着られ、いやしい姿で、低い身分で、私達の救い主として、世界に来られたのであろうか―これらを学ぶことは大切なことである。
 キリストが地上に来られ、なされたようにすること、すなわちこの地上での主のご生涯は、天の宮廷における主の栄光とは、比較にもならない相違を持つ貧しい生活をされるべきであったということは、天の万軍の驚きであった。主は多くのみ使いを連れておいでになることもできたのである。…
 天の宇宙の前で、キリストはご自身に人間の姿をまとって地上の身分の低い人達の間に立つために身を落とされた。それにより主は、人がいる所で彼らに接し、戒めや模範によって彼らを教えられた。人は貧しい、しえたげられた人々の間にあっても、純潔で、真実で、気高くあり得るのである。人生や品性は、貧乏や、身分の低さの中で、汚されるものではないということをあらわすために主はこの世に来られた。池の水面に咲いた蓮は、雑草や、見苦しいごみに囲まれているかも知れないが、しかし汚れなく、それは日光に向って香しい白い花を咲かせるのである。その、蓮は水分を吸い上げる茎を、汚れた水を通して、清い地下の砂に到達させるのである。この花は汚すことになるすべてのものを拒み、傷のないかぐわしい花に成長するような材料だけを自分に集めるのである。
 ゆりは人間の間におられるキリストを表わす。主は、呪いですべてが麻痺させられ傷つけられた世界に来られた。しかし、主は、ご自分のまわりのものによって汚されなかった。主は、光であり、命であり、道であられた。主は、ご自身の意志で地上の一人の住民になられ、主のあわれみ深いみ手に全世界をしっかりとつかまえられ、天のみ父のみ腕に、それをおおきになるのである。なんという愛が、この犠牲にあらわれたことであろう。主ご自身が、アダムの堕落した、むすこ、娘たちを助けるために来られたのである。(YI1897年1月21日)

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