「謙遜の偉大さ」

  「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:8)

 キリストは、栄光の回復させる力によって、人間が高められるようにと、神の栄光をあらわすためだけの目的で、この世界においでになった。すべての力と、恵みが、主に与えられた。キリストの心は、生ける水の源、また枯れることのない泉であり、ご自分のまわりにいる者に豊かで、清らかな流れをいつも溢れさせる用意ができておられた。主の全生涯は、清く、私心のない、慈愛深いご生涯であられた。主の動機は愛と、同情に満ちていた。主は、ご自分に従う者達が求め、あるいは考えられる以上のことを彼らのためになされることを喜んでおられた。弟子達のためにする主の絶えまない祈りは、彼らが真理によって清められることであった。そして、全能の神のご命令が、世の造られる前に与えられていたことを知っておられたので、確信を持って祈られた。主はみ国の福音が全世界に伝えられることを知っておられた。聖霊の無限の力によって武装された真理は、悪との争いにおいて悪を破るであろう。そして、血に染むみ旗は、ある日、主に従う者達の中で勝ち誇ってはためくであろうということを知っておられた。
 しかし、キリストは非常な謙遜のうちに来られた。主がこの世界におられた時、ご自身を楽しませるのではなく、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ご自分に従う者たちに対して、主は、「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)と言われた。
 真の謙遜の根から、最も大切な心の偉大さすなわち人をキリストのみ姿に一致させるように導くという偉大なことが生えてくる。この偉大さを持っているものは、忍耐と、神への信頼を得る。彼らの信仰は、不屈である。彼らの真の献身と信心は、自己をあらわさないようになる。彼らのくちびるから出る言葉は、キリストのような柔和と愛の表現にかたちづくられる。彼ら白身の弱さを知る時、彼らは、主が彼らに与えて下さる助けを感謝し、正しく真実であることを行なうことができるように、主の恵みを懇願する。彼らの行ないや態度、又精神によって、彼らがキリストの学校の生徒であるという身分証明書をたずさえることになるのである。(RH1897年5月11日)

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