「侮られて捨てられ」

 「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)

 三十年間の地上の御生涯で、神のみ子の心を引き裂いた苦悩のその意味を理解している人はなんと少ないことであろう。かいばおけからカルバリーヘの道には悲しみと悲哀がつきまとっていた。主は悲しみの人であり、人間の言葉では描写することのできないほどの心痛に耐えられた。主は実際「わたしにくだされた苦しみのような苦しみが、また世にあるだろうか、尋ねて見よ」(哀歌1:12)と言うこともおできになった。主の魂は魂の最も深い苦痛であつた。無限の神のみ子、そのお方の苦悩に対してどのような人が心の底からの同情心を持つことができたであろうか。御子は罪を全くの嫌悪感をもって憎んでおられたが、ご自身の魂に全世界の罪を集め、罪を犯した者の刑罰に苦しみながらカルバリーヘの道を歩まれたのである。罪がないのに主は有罪の刑罰を負われた。潔白であるのに、主は神の律法の違犯の刑罰を負
うためにご自身を提供された。一人一人の魂の罪に対する刑罰は無限であられる神のみ子の身に負われた。一人一人の罪の責任が世の救い主の聖なる魂にその重みをかけた。罪を知らなかった方が、わたしたちが主にあって神の義となることのできるために、私達のために罪となられた。
人間の性質を取ることによって、主は私達のとがのために傷つけられ、私達の不義のために砕かれ、その打たれた傷によって、私達がいやされる立場にご自身を置かれたのである。
 キリストは、人性をとっておられる時、その性質が人間の性質よりも偉大であられたので、人よりも、もっと大きな誘惑で試みられた時、人が悪魔によって試みられる時の忍耐力よりも更に我慢強い力強さをもって、耐えられた。キリストが、この上なく繊細な思いやりをもって人間と結びつけられているという事は、深い神秘的な真理である。アダムのすべての息子、娘達の悪い行ないや悪い思想、又悪い言葉は、キリストの聖なる魂にのしかかった。人間の罪は、主ご自身に報復を求めた。それで主は、人間の身代わりとなられ、世の罪をご自身に引き受けられた。主は一人一人の罪人の罪を負われた。なぜなら、あらゆる違法は主に帰せられたからである。…
 「私達は、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」(ヘブル2:3)。(RH1892、12、20)

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