「私達のとがのために傷つけられ」

 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:4、5)

 誠実な|クリスチャンは、罪が行った荒廃を見て、心から悲しみを覚える。しかし、人間の限られた感性は、人間の心の中に罪が存在する時、その罪をキリストがごらんになって、悲しまれるようにはその悲しみを十分に理解することはできない。…主の気高い純潔の光から、世の救い主は、人類家族が神の律法の違犯によって自分達にもたらされたために苦しんでいる病をごらんになることができた。あらゆる苦しみを主は、その原因にかえってごらんになられた。主は、悔い改めない罪人の悲しい、そして恐るべき最後の歴史を読み取っておられた。主は、ご自分だけが彼らの落ち込んだ穴から、彼らを救うことができることを知っておられた。主だけが彼らの足を正しい道におくことができた。主の完全さのみが、人間の不完全さのために役立つことができた。主だけが、ご自身の義というしみのない衣で、人間の裸をおおうことができた。
 キリストは、すべての人を求められた。主は、一人が失われる事さえ耐えられなかった。ああ、もし人類家族が世の中に存在する違法や、違犯や犯罪における罪の結果を見ることさえできたなら。自分が神のみ姿から、悪魔に似た者に変化しているのをもし人類家族が知ることができたならばよいのに。人は純潔で聖なるものに造られたが、しかし、罪を犯すことによって、サタンの特性を持つようになったのである。……
 人間の姿で世に来られることにより、また、律法の支配を受ける者となることにより、そして、人間の病や悲しみや罪を、ご自分が負われたことを人にあらわすことによって、キリストが罪人になられたということではなかった。主は、純潔で、どのような病にも汚されていなかった。罪のしみは一つとして主には見つからなかった。…主は、神のしみのない小羊として世の前に立たれた。苦しんでいる人性が、主に負いかぶさった時、完全な人間としての健康の状態にあられた主は、人性に悩まされる方となられた。人間のために主がご自身の完全な愛をあらわされるということが、本質的な事柄であった。
…キリストは、全世界を救われるほど強くあられたのである。(MS18.1898)


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