「ご自分の勝利を宣言される勝利者」

  「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」

 イスラエルの大祭司について聖書は「アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当にあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前に常に覚えとしなければならない」(出エジプト28:29)と書いてある。これは、ご自分の教会に対するキリストの変わらない愛のなんという美しい、そして意味の深い象徴であろうか。アロンがその型であった、私達の偉大なる大祭司は、ご自分の民をご自分の胸においておられる。…罪の完全なあがないをしている、偉大なる大祭司として、キリストは、天の威厳と栄光の中に一人立っておられる。他の大祭司達は、ただ型にすぎなかった。それで、主があらわれた時、彼らの奉仕の必要は消えうせた。…誘惑の対象である人類は、天の法廷に私達の弱さを知ってくださる一人の大祭司を持っていることを覚えるべきである。なぜなら、主は人間と同じようにご自身が試みられたから、それがおできになるのである。(RH1903.3.17)
 キリストは真の幕屋で仕えておられる方であり、ご自分を個人的救い主として信じるすべての人の大祭司である。そして、主の役割に他の人が代わることはできない。主は教会の大祭司である。…
 キリストは、神の遺産を買い戻して、人間にもう一度機会を与えるために、ご自身の裂かれたからだを提供された。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル7:25)。
 主のしみのない生活と従順、そしてカルバリーの十字架上の死によって、キリストは失われた人類のためにとりなしをされた。そして、今、私達の救いの指揮官は、単に請願者として私達のためにとりなしをされるだけではなく、勝利者として御自分の勝利を宣言されている。主の供え物は完全である。そして私達の仲保者として、主ご自身のしみのない功績と、御自分の民の祈りと告白、そして感謝を入れた香炉を神の前に持って、主ご自身が定められた働きを遂行しておられる。主の義の香りで香しくされて、これらは麗しい香気として、神に上っていく、このささげ物は完全に受け入れられ、許しはすべてのとがをおおうのである。(ST1900.2.14)

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