「完全な贖罪」

 「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ5:11)

 私達の大祭司は、門の外で苦しまれた時、ご自身の犠牲の供え物を完全にされた。その時、完全な贖罪が民の罪のためになされたのである。イエスは、私達の弁護人、又私達の太祭司、そして私達の仲保者である。それゆえ、私達の現在の立場は、昔のイスラエル人が、宮の外庭に立って、祝福された望みである私達の主であり、そして救い主であるイエス・キリストの栄光のあらわれを待ち望んでいるそれに等しいのである。…
 私達の大祭司が、現在とりなしておられるその場所を象徴していた至聖所に、大祭司が入って、祭壇に犠牲をささげた時、外ではあがないはささげられなかった。大祭司が、内でとりなしをしている間中、人々のすべての心は、犯した罪の許しを願って、神の前に、悔い改めて頭をたれているべきであった。キリストの死において、型は実体と会い、小羊(キリスト)は、世の罪のために殺された。偉大なる大祭司(キリスト)は、最高の価値を持つ唯一の犠牲をささげられた。…
 私達の弁護人としての主のとりなしにおいて、キリストは、人間の徳や、人間のとりなしを必要とはされない。キリストは唯一の罪を負う方であり、唯一の罪のささげ物である。祈りと告白は、すべての人のために、一度だけ至聖所に入られた主に対してのみささげられるべきである。…
 キリストは、世にご自分のみ父をあらわし、また、み父の前にご白分が神の道徳的み姿を回復された人々を示しておられる。彼らは、神の遺産である。…どのような祭司も、どのような宗教家も、アダムの息子、娘に父なる神をあらわすことはできない。人間は、罪を許すことのできる唯一の弁護人、唯一人の仲保者を持っているのである。私達の罪のためのなだめの供えものとなるために、イエスを与えられた神に対する感謝で已達の心はいっぱいにならないだろうか。み父が、私達のためにあらわされた愛、神が私達のために示された愛を深く考えなさい。
 私達はこの愛を量ることができない。いかなる尺度もないのである。私達はただ、カルバリーと、世の基のはじめから、ほふられた小羊をさし示すことができるだけである。それは、無限の犠牲である。私達は、無限を理解し、量ることができるだろうか。(MS128,1897)


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