「どのような嵐にも安全」

 「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。」(ヘブル6:19,20)

 「望みが私達の前に置かれている。それは永遠の命の望みてある。まさに私達のためであるこの祝福は私達の救い主を満足させる。しかし、この望みを信仰によって、約束された方に置くのは私達のなすべき分である。私達は、苦しむことが予想できる。なぜなら主の栄光に主と共にあずかる者は主の苦しみを主と共に分かちあう者だからである。主は罪深い滅ぶべき人間の魂のために許しと不死とを買い取られた。しかし、これらの賜物を信仰によって受け取るのは私達のなすべき分である。主を信じることによって、私達はこの望みを魂の錨、確かで不動のものとして持つのである。主が私達の救いのために、このような価を支払われたので、私達は神の恵みをこの世ばかりでなく、天の世界においても確信をもって期待できるということを理解すべきである。キリストの贖罪ととりなしにおける信仰は、戦う教会にいる私達を押しつぶそうとする誘惑の最中にあっても、私達を安全な、不動なものにしてくれる。私達は、自分の前に置かれている栄光の望みを瞑想し、信仰によって、それをつかもうではないか。……
 私達は、天を自分白身の功績によってではなく、イエス・キリストの功績によって得るのである。…あなたの望みは、あなた自身を中心におくのではなく幕の内に入られた主に集中されねばならない。祝福された望みと、私達の主、イエス・キリストの栄光の出現を語りなさい。
 私達が大きな道徳的危機にさらされていることは事実である。堕落する危険の中に私達がいることも事実である。しかし、この危険も私達が自已に頼り、私達白身の努力だけを見て、それより高いものを見ようとしない時に私達を脅かすのである。こういうことでは、私達は信仰の破船をしてしまう。(RH1896.6.9)
 永遠の命という私達の望みはキリストに集中する。私達の望みは、幕の内に入り行く時、魂にとって、いわば、魂を安全にし、不動にする錨である。なぜなら嵐にほんろうされている魂は神のご性質を分かちあうものとなるからである。その人はキリストに錨をおろす。誘惑という荒れ狂う暴風雨のさ中においても、その人は岩にぶつかったり、うずの中におぼれたりすることはない。主の船は嵐を乗り切ることができる。(letter100,1875)


聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村