「イエスは私達をつかんでおられる」

 「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。」(ヨハネ10:27,28)

 天の法廷において、キリストはご自身の教会を弁護しておられる。すなわち、ご自身の血で贖いの価を支払われた、その対象である人間のために弁護しておられる。各世紀、各時代を通し、主の贖いの犠牲の効力は減少したことがなかった。命も死も、高さも低さもキリスト・イエスにある神の愛から私達を引き離すことはできない。私達が主にしっかりとつかまっているからではなく、主が私達をしっかりとつかんでおられるからである。もし私達の救いが、私達自身の努力によるのであれば私達が救われるのは無理なのである。しかし、救いはすべてのみ約束の背後に立たれる方にかかっている。私達の主のとらえ方が弱くても、主の愛は兄の愛である。私達が主との結合を維持する限りはだれも、主のみ手から、私達を引き離すことはできない。(AA552,553)
 イエス尊いエスは「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」(出エジプト34:6,7)であられる。私達はあるがままでイエスのところに来て、主の愛に自分を投げ出すことができるというのはなんという特権であろうか。私達はイエス以外には希望がない。主だけが私達のところに来て、そのみ手で失望と絶望の底から私達を引き上げ、岩の上に私達の足を置くことができるのである。人間の魂は、自分の大きな必要に必死になって、イエスにすがりつくことができるが、イエスは、罪人がご自分にすがりつくよりも、もっとしっかりと握って、ご自身の血で買われた魂をつかんでくださるのである。
 私は保証で満ちている次のみ言葉を何度も何度も読んだ。「さて私達には、もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、私達の告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、私達の弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私達と同じ様に試練に会われたのである。だから、私達は、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:14-16)。……なんというすばらしい救い主、すなわち、よみがえられた救い主、ご自分に来る者をすべて救うことのできるお方を、私達は持っていることであろう。(letter119,1893)

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