「淵にかけられた橋」

  「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」

 「イエスが『わたしは道であり、真理であり、命である』と仰せになった時、彼は素晴らしい意味深い真理を述べられたのである。人間の違犯は、地を、天から、また有限な人間を無限の神から引き離した。島が大陸から離れているように、地は天から切り離され、神と人間との間に広い川が横たわってしまった。イエスはこの淵に橋をおかけになり、人間が神のところへ行くことのできる道をおつくりになった。霊的な光を持っていない者は、道を見い出さず、希望も持たない。そして人々は自分達が考え出した命の道についての彼ら自身の考えを持っている。・‥しかし、人間に与えられた彼らを救い出すことのできる唯一の名は、イエスである。罪が作った淵を渡って、「わたしは道であり、真理であり、命である」という主のみ言葉はもたらされる。…
 人間はキリストの義を着ることによってのみ、義とされる。人は、行為によってではなく信仰によって、神の恵みによってただで義とされるのである。これはだれもがそのことによって誇ることがないためである。救いはわたし達の主イエスーキリストを通して与えられる神の賜物である。…
 敵がアダムとエバを罪に陥れて後、天と地との関係は断たれた。そしてキリストのかかわりがなかったならば、堕落した人類は、天国への道は知るすべもなかった。…キリストは、最下段は地につき、最上段は無限なる方のみ座にとどく神秘なはしごである。アダムの子らは神から見捨てられ、また、うとんぜられて、放っておかれるのではなく、キリストの義を通して私達は、天父のみもとに近づけるのである。
 キリストは、「私をとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」と仰せになった(∃ハネ10:9)。地よ、喜べ、この世界に住む者よ、歓喜せよ、キリストは罪が作った淵に橋をかけられ、天と地を一つに結ばれたのである。主に贖われた者のためにりっぱな道が作られている。疲れ、重荷を負っている人は主のもとに行き、彼らの魂に休息を見い出すことができる。巡礼者は、主がご自分を愛する者のために用意するために行かれた住まいに向かって、旅をすることができるのである。(RH1890,11,11)

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