世にいる生ける証人 by パブロ・M・ハンガー(アメリカ)

 イエスが死からよみがえられた!天使は喜びに満ちて、この素晴らしい出来事を墓にやってきた女たちに告げました。そしてその知らせは、ただそこで終わるのではありませんでした。「…… 急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。……」(マタイ 28:7)。 彼女たちはどうしましたか? 「……女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」( マタイ 28:8)。同じ出来事が、エマオへの道中にいた弟子たちにも起こりました。彼らと歩きながら語った見知らぬ人が、イエスであるということが分かると直ぐ、彼らは起き上がって、急いでエルサレムに戻り、弟子たちに知らせました、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」(ルカ24:34)。イエスが11人に現れた時、このお方はこう告げられました、「あなたがたは、これらの事の証人である。」(ルカ24:48)。そしてそれは本当になりました。ペンテコステ使徒ペテロは「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」と宣べ伝えました(使徒行伝2:32)。

 福音の良い知らせを宣べ伝えることは、まさにイエスが公生涯において多くの人々に教えられたことでした。このお方に癒していただき、このお方と共にいることを望んだ人にイエスは「お許しにならないで、彼に言われた、『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ」(マルコ5:19, 20)。

 真の証人の証は、忘れられることはありません。ですから神とのわたしたちの経験の個人的証は、非常に力強いのです。それは、すべてのクリスチャンに、主が与えられた特権です。あなたが見て聞いたことは誰も否定することができないだけでなく、主との個人的生活であなたが経験したことはなおさら否定することができません。それを人々に告げましょう!それを伝えましょう!


神との経験の力 


 わたしたちは、何年間もの苦しみと奴隷の身からご自分の民を自由にするために、神が力をもって紅海に道を開かれ、エジプトの軍隊を滅ぼすために水を放たれた後、喜びの賛美が歌われたことを想像することができます。そしてイスラエルは完全に自由にされて、カナンまでの旅路を続けることができました。それは忘れることのできない経験であり、その後、民を励まし、全能なるお方に対する信頼を強めるために何度も繰り返されました。

 「あなたがたは、すでにあなたがたの神、主が、このもろもろの国びとに行われたすべてのことを見た。あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である。」(ヨシュア23:3)神の偉大な働きの証は、世代から次の世代へと伝えられ、それによって神の偉大な力に対して両親と子供たちが信頼を置くように励ましました。
 わたしたちの生活において解放の経験を覚えることは、わたしたちの信仰とわたしたちの子供たちの信仰を強める祝福です。イスラエルの民が荒野にあってあれほどの奇跡によって祝福されたのにもかかわらず、彼らは非常に多くの不思議を目撃してきたという事実に感謝しなかったということは、なんと悲しいことでしょう。その世代において、契約の地に入ったのは、信仰の人であるヨシュアとカレブの二人だけでした。
 多くの場合、イスラエルの人々と同じように、わたしたちは自分たちの限界だけを見て落胆します。わたしたちは信仰によって進む用意ができておらず、神との自分の経験についてさえ恥じるのです。どんなときにも神の導きに信頼することを学びましょう。

 荒野における奇跡の知らせは、神がどのようにご自分の民を導かれたのかを目撃したカナンの人々に大きな恐れを起こしました。エリコのラハブのように、ある者は神の力を認め、このお方の憐れみを求めました。彼女はこう宣言しました。「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。」(ヨシュア2:9-11)。神はこの心からの告白を聞かれ、彼女を自由にされました。彼女は救い主の一族の一部となる特権さえ与えられたのです。

 同じように、今日も多くの人々が遠くからわたしたちを見ており、神がわたしたちに与えられる祝福に驚きます。彼らは、わたしたちの証を聞き、彼ら自身の生活においてもそのような祝福を経験することを願います。


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 なんと多くの人々が、魂の渇きをいやそうとしても何の結果も見い出せずにいることでしょうか。何度も彼らはサタンの罠にはまり、落ちるたびにもっと深く、破壊的になります。多くの人々は違った方法を探し、救いの証を聞くことを願っています。サマリヤの女の場合もそうでした。「この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、『わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません』。人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。多くのサマリヤ人は『この人はわたしのしたことを何もかも言いあてた……』」(ヨハネ4:28-30,39)と言った女の証のゆえにこのお方を信じました。その町の住民にとって、サマリヤの女の証と招きを聞いたことはなんという祝福であったことでしょう。機会をつかみ、救い主を見つけるという心からの願いは成就されたのでした。

 わたしたちの周りにも、わたしたちの人生について聞き、道であり真理であり命であるお方を知るようにとの招きを受けたいと願っている人がいると思います。後に「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」(ヨハネ4:42)と宣言したサマリヤの住民の場合もそうでした。

 2010年の初めにチリで起こった地震の時、本土から離れた島に住んでいた12歳の女の子が、おじいさんから地震についてのニュースを聞きました。彼女が窓の外を見た時、彼女は海岸にある船が水で揺れ動いているのを見ました。急いで、彼女は町の広場に走って行って、力を込めて鐘を鳴らして、迫っている危険を町の人々に警告しました。数分の後、津波が島を襲いました。しかし、多くの人々の命は、この女の子の素早い行動と警告によって救われたのです。

 わたしたちがキリストにあって得た経験を伝えるために、主がわたしたちに与えられた機会を少しでも失うことがないようにしましょう。わたしたちの証によって、わたしたちは多くの人々の命を救い助けることができるのです。


彼らは神に栄光を帰した


 イエスが罪人の苦しみを取り去られた時はいつでも、大いなる喜びがありました。その奇跡を経験した人だけが幸福になったのではなく、起こったことを目撃した人々もその人と共に喜びました。「すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と言った。」(マルコ2:12)

 別の場合に、キリストが中風の人を癒された時、「みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、『きょうは驚くべきことを見た』と言った。」(ルカ5:26)。神がなされたことを見たすべての人は、同じ反応をし、このお方の御名を認め栄光を帰すようになります。これがなぜ、バプテスマのヨハネが獄の中で、主の働きについて混乱していた時に、イエスが彼の弟子たちに、彼らが見たすべての素晴らしいことをヨハネに告げるようにと言われたかという理由です。これは世の救い主に対する彼らの信仰を力づけ確実にしました。「イエスは……言われた、『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。』」(ルカ7:22)


否定することのできない証


 イエスが祭司のかたくなな心に触れるために用いられた最も力強い方法の一つが、癒されたらい病の人の証でした。「イエスは彼に言われた、『だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい』。」(マタイ8:4)
 これについて、預言の霊はこのように述べています。「このらい病人に追放を宣告した同じ祭司たちが、彼のいやしを証明した。この宣告は、公に発表され、記録されるので、それはいつまでもキリストをあかしするものであった。そしてこのいやされた男が、病気の跡さえないという祭司たち自身の保証によって、イスラエルの会衆の中へ復帰したとき、彼自身が恩人であられるイエスの生きた証人となった。彼はよろこびにあふれてささげ物をささげ、イエスのみ名をあがめた。祭司たちは救い主の天来の力について確信させられた。」(各時代の希望上巻p334,335)
 今日のわたしたちも、個人的な証によって神の素晴らしい働きを伝えたとしても、結果が出ないと考えるかもしれません。しかし、イエスの時代に起こったように、個人的な証は、人々の心に届くための最も効果的な方法の一つです。人のメッセージは受け入れられるか拒まれるかの二つの選択肢しかないのですから、わたしたちは聖霊の働きによって、人の心に植えられた種が、永遠のための実を結ぶということを信頼すべきです。


わたしたちが手で触ったものを伝える


 使徒ヨハネは、わたしたちの証が生きた証となるための重要な手掛かりを与えてくれました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(ヨハネ第一1:1-3)。彼のメッセージは、わたしたちの個人的な証の一部となるべき経験の全体に基づいています。

 わたしたちが聞いたもの: 使徒パウロは、信仰は神のみ言葉を聞くことから来ると書きました。ローマ10:17これは、まずメッセージが伝えられなければならないということを意味しています。もしそれが語られていなかったなら、誰もそれを聞くことがないし、それを知ることはないのです。神の真理も、利用可能な多くの方法―言葉によって、手紙によって、電子メールによって、また今日はショート・メッセージ・サービス(SMS)を通して伝えられるべきです。わたしたち各自は聖書から学んだことを伝えるべきです。わたしたちは自分たちの回りにいる人々と話す方法をたくさん持っています。

 目で見たもの: わたしたちが見るものは、多くの場合、わたしたちが聞くものよりさらに大きな印象を生みだします。わたしたちが、他の人々の生涯で神がなさったことを伝えるなら、真理をさらに確認することができます。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」(ローマ1:16)

 よく見たもの: 見ることと眺めるということは違います。多くの場合、例えば長旅をしている時、わたしたちは道路標識を見ますが、見たことが印象に残りません。しかし、花を眺める時、わたしたちは神の創造の素晴らしい御業の細部を注意して見ることによって、その偉大なみ力を悟ります。時間をかけて聖句を瞑想する時、わたしたちはみ言葉の深さと生命力とメッセージの美しさを理解することができ、そうすることによって神をもっとはっきりと見るのです。これは、ダビデが「わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる……。」(詩篇27:4)と表現しているのと同じ喜びと確証を分かち合うようにするのです。

 手でさわったもの: わたしたちの証において最も価値があるものは、神とのわたしたちの経験です。わたしたちが聞いたもの、わたしたちが見たもの、わたしたちが眺めたもの以上に、わたしたちが生きたこと、またわたしたちの手で触ったものを他の人々と分かち合うということは、非常に素晴らしいことです。それは経験した者にとって大きな喜びですし、それを聞く者にとっても特に感動的です。もしわたしたちが主との個人的経験を持っていないなら、わたしたちは真剣な祈りによって心をこめてそれを求めるべきです。なぜなら主が次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」真理の知識を分かち合うということは大きな価値があることですが、その真理を個人的に経験したことはさらに大きな価値があります。

 主はご自分の子らの一人一人との、個人的な関係と絶え間ない交わりを求めておられます。このお方は、わたしたちの日毎の生活においてこのお方の祝福に気がつくことを願われます。神について聞いたこと、またこのお方があなたに示されたことを、時間をかけて瞑想することなしに一日も過ごしてはいけません。その日に、あなたが経験したこと、またこのお方のみ手から受けたものについて考えてみましょう。神があなたのそばにおられなかったとしたらどうなっていたでしょうか。すべてが自然のなりゆきで起きたとか、それが、あなた自身がしたことの結果であったと考えてはいけません。神の恵みがあなたと共にあったのです。このお方のみ手があなたを持ち運ばれたのです。ですからそのためにこのお方を賛美し、このお方に栄光を帰しましょう!

 個人的な生活においても、神との日毎の交わりを怠った時にはいつでも、わたしの経験が害を受けたということを認めなければなりません。わたしたちは自分たちが安全を失うことなく、喜びと平安をもってすべての出来事に直面するのに力強くなるために、霊感を受けた書物を読み、神との関係を培う時間を持つ必要があります。一人の証は些細なものに思われるかもしれませんが、それは味を与える塩のようなものです。世にとって生ける証は、暗闇の中で歩かなければならない人にとっての光、渇いた人にとっての水のようなものです。天来の喜びと安全を分かちあうために、すべての機会を用いましょう。


分かち合う喜び


 「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒行伝4:20)。わたしたちの個人的証が、他の人々の生活に大きな影響を与えることができるということを考える時、わたしはこの機会を用いて皆さんに自分の証を書きとめて、自分の周りにいる人たちと分かち合うようにと奨励したいと思います。また、それを出版物にのせるために検討することができるように、世界総会の本部に送ってください。


言葉のない証


 次の経験について少し考えてみましょう。有名な讃美歌の著者であり、盲目であったファニー・クロスビーはある日、ミッションを訪ねて、母親がいない少年がいるかを尋ねました。彼女は、そのような子供と時間を過ごし、抱きしめてあげたいと思いました。親のいない小さな男の子が彼女のところにやって来ました。彼女は彼の肩に腕を置いて、優しくキスしました。

 彼女はそこから帰って、「罪の淵に陥りて」という素晴らしい讃美歌を書きました。ある日、イラ・サンキーがセント・ルイスでこの讃美歌を歌った時、聴衆の中から一人の男の人が立ちあがって、言いました。「ファニー・クロスビーがその晩キスした男の子は、わたしです。わたしは、その優しい手と捨てられた子供たちに対する愛に満ちた心の鼓動が、わたしに与えた印象を忘れることができませんでした。そして、彼女が勧めたように、わたしはクリスチャンになりました。」

 親愛なる兄弟姉妹方、わたしたちは毎瞬間、言葉なしでも、キリストとの関係を証言しています。主と共に生きることによる、単純で実際的な祝福を経験することは重要です。神とこのお方のみ言葉に費やす静かな時間は、わたしたちが手に取り触ったものを人々に伝えることによって、増し加えられ上からの力によって強められます。多くの人が、あなたの生涯の証を通して、神とキリスト教の印象を受けるということを覚えてください。

 「家庭から離れている子供たちの態度によって、他人は、開かれた本を読むように、過去の家庭の生活を読むことができる。彼らはそこに、ないがしろにされた義務、思いやりの欠乏、自分を忘れることの無さ、争い、苛立ち、我慢できない気質を読む。主を恐れているということを示す者たちは、品性と言葉によって、愛が大切にされ、平安があり、忍耐が培われ、他の人々を幸福にするという自分の義務を覚えて生活の小さなことに注意が向けられている家庭について証するのである。……」―神のむすこ娘p113


生きた証


 もう一つの霊感を受けたメッセージが、わたしたちに次のことを指摘しています。「キリストの生涯を生きることをしない名目的クリスチャンの生涯は、宗教に対する嘲りである。教会名簿に名前が載っている一人一人は、柔和でしとやかな霊という内なる飾りを表すことによって、キリストを表す義務のもとにいる。彼らはこのお方の証人となり、キリストが与えられた模範に従って歩き働くという益を知らせるのである。この時代のための真理は、それを信じる者たちの生活において力を表すべきであり、世に伝えられるべきである。信者は生活において、人を聖化し気高くする真理の力を表すべきである。」―教会への証9巻p22

 わたしたちは、沈黙を保つことによって、裁判で負けた弁護士の経験を繰り返さないように気をつけるべきです。著名な弁護士であったサムエル・ホアー(1778-1856)は、被告人を代表していました。自分が弁護する時が来た時、彼は自分の依頼人が有利であることは明白な事実であるので、議論することによって彼らの知能を侮辱したくないと陪審員たちに告げました。陪審員たちが審議するために退席し、数分の後、戻ってきて有罪の判決を下しました。サムエル・ホアーは驚いて、「なぜ、そのような判決を下したのですか?」と尋ねました。陪審長は「あなたが申し立てについて何か言うことができたなら発言しただろうと、わたしたちは同意しました。しかし、あなたが何の証拠も示さなかったので、わたしたちはあなたに不利な判決を下すことを決定しました」と答えました。

 わたしたちは、キリストについて伝える機会を持っていながら、黙っていることがなんとたびたびあるでしょうか。そのような場合、メッセージを聞く必要がある人たちに、キリストに対する信仰について語ることは、あまり重要ではなく、時間を費やす価値がないと結論するでしょう。彼らがそのような結論を出すことがないようにしましょう。イエスとのわたしたちの経験を伝えるすべての機会は、黄金の時です。

 「神のすべての証人は、神が定められた分野において今、知的に働くべきである。わたしたちは、クリスチャン品性を完成する働きにおいて、日毎に、深く生きた経験を得るべきである。わたしたちは、他の人々に与えるために聖霊の油を、日毎に得るべきである。すべての者がそうするなら、世に対して光を担うことができるのである。わたしたちはイエスの中に、自己を見えないところに沈めるべきである。」―牧師と福音宣伝者への証p510

 神のいくつかのみ言葉の中に、同じ考えを見つけることができます。「わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。」(詩篇9:1)。

 「わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからのあなたのくすしきみわざを思いだす。わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。あなたは、くすしきみわざを行われる神である。あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわし、その腕をもっておのれの民をあがない、ヤコブとヨセフの子らをあがなわれた。」(詩篇77:11-15)

 「新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。」(詩篇96:1-4)

 詩篇記者が記したように、主がわたしたちに、欠乏している世に対して生ける証人になることによる経験と喜びを与えてくださいますように。アァメン

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