「隅のかしら石であられるイエス」 byアルフォンソ・レト(ペルー)


 「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」(エペソ2:20)

 建物の隅のかしら石は、非常に大きな重さと、周囲の圧力に耐えるのに十分に大きく、強い石です。それは、二つの壁を固定し、組み合わせるために建物の隅に置かれます。石の大きさは、建物の寸法に従って決められます。

 ソロモンの神殿が建設されていた時、大きな石が、石切り場からエルサレムに持ってこられましたが、それは建設者によって拒まれ、常に妨げとなる石として考えられていました。しかし、長い間の後、彼らはそれが隅のかしら石に最適であることに気がつきました。なぜならそれは大きな重量に耐えることができたからです。それは拒まれた石でしたが、建物の構造に適合しました。従って、彼らはそれを壮大な宮の土台のために置きました。

 その隅のかしら石はイエスを表しています。詩篇記者ダビデ使徒ペテロは比喩的な方法で、この石に言及しました。「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」(詩篇118:22; ペテロ第一2:7)


家長時代における隅のかしら石


 主を彼らの信仰の土台、すなわち隅のかしら石として信じた家長は、神の啓示によると、メシヤが岩、すなわち救い主として来られるという素晴らしい宣言を伝えました。

 家長アブラハムは、父なる神を信じ、彼に息子が与えられ、多くの子孫が乳と蜜が流れる契約の地(創世記15:1-5)を受け継ぐという約束の成就を待ちました。霊感の下でヤコブは、自分の子孫、もっと正確には自分の息子の一人から出るお方について預言を示しました。

 「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」(創世記49:10)もう一つの聖句がこれを補足しています。「隅石は彼ら〔ユダ王国〕から出……る。」(ゼカリヤ10:4)

 そして、これは正確に起こりました。すなわち救い主がユダの部族にお生まれになりました。このお方は人を人に結びつけ、地を天と、また人を神と結び付ける隅のかしら石でした。

 「神のみ子が、救い主としてまた王として来臨されて、贖いを行われるというこの希望は、人々の心の中から消えたことはなかった。暗いこの世のかなたに、来たるべき現実の世界を信仰によって待望した人々が最初からあった。アダム、セツ、エノク、メトセラ、ノア、セムアブラハム、イサク、ヤコブなどにより、またその他の勇者たちによって、主は神のみこころの尊い啓示を保存されたのである。こうして、選民イスラエルの人々によって…神は、神の律法の要求と神の愛するみ子の贖罪の犠牲によって救いが成し遂げられることを、人々に告げられたのである。」―国と指導者下巻280

 すべての家長は、この永遠の岩、すなわち救い主イエス・キリストによって支えられ、その上に確立したのです。そして、彼らはこのお方と個人的な経験を持ちました。霊感を受けたペンはこのように言っています。「神は、型と約束によって、『アブラハムに・・・・良い知らせを、予告したのである』(ガラテヤ3:8)。そしてアブラハムの信仰は、来臨される贖い主に集中された。キリストは、ユダヤ人に言われた。『あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ』(ヨハネ8:56)。イサクのかわりにささげられた雄羊は、われわれの身代わりとして犠牲となられる神のみ子を代表していた。人間が神の律法を破って死ぬべき運命に陥ったとき、父なる神は、み子をながめて、罪人に『生きなさい。わたしは、身代わりを見つけた』と言われた。」―人類のあけぼの上巻160,161

 使徒パウロは、家長に言及して、彼らについて言いました。「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。」(ローマ9:4, 5)


神の御名を持つ使


 イエスは、民を導いた使として言われています。「見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし、もしあなたが彼の声によく聞き従い、すべてわたしが語ることを行うならば、わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとするであろう。わたしの使はあなたの前に行って、あなたをアモリびと、ヘテびと、ペリジびと、カナンびと、ヒビびと、およびエブスびとの所に導き、わたしは彼らを滅ぼすであろう。」(出エジプト記23:20-23)

 神がご自分の民を自由にされたのは、この「使」、すなわち主イエスによってでした。「わたしたちが主に呼ばわったとき、主はわたしたちの声を聞き、ひとりの天の使をつかわして、わたしたちをエジプトから導き出されました。わたしたちは今あなたの領地の端にあるカデシの町におります。」(民数記20:16)

 「神が選民を扱われた方法がしるされている聖なる歴史の全体のなかに、偉大な、わたしは有ると言われたおかたの栄光に輝く足跡をたどることができる。……
 このような神の臨在があらわされたときは、いつもキリストによって神の栄光が現わされた。救い主がこの世に降臨なさった時ばかりでなく、人類の堕落およびその贖罪の約束が与えられたとき以来、各時代を通じて「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」ておられた(コリント第二5:19)。キリストは、家長時代とユダヤ時代の両時代にわたって、犠牲制度の基礎であり中心であった。われわれの先祖が罪を犯して以来、神と人間の間には直接の交わりはなかった。父なる神は、この世界をキリストの手におゆだねになった。そして、神は、キリストの仲保の働きによって、人間を救い、神の律法の権威と神聖さを擁護なさるのである。堕落した人間と天との交わりは、すべてキリストを通じて行なわれた。われわれの先祖に贖罪の約束を与えたのは、神のみ子であった。家長たちにご自分をあらわされたのは、キリストであった。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセなどは福音を理解した。彼らは人間の身代わりと保証であられるキリストによる救いを待望した。これらの古代の聖者たちは、この世界に人間となって来られることになっていた救い主と交わったのであった。彼らのなかにはキリストや天使たちと顔を合わせて話したものもあった。キリストは、荒野におけるヘブル人の指導者であられた。彼は、主とも呼ばれた天使なる神であって、雲の柱に包まれて、軍勢の前に進まれた。ただそれだけでなく、イスラエルに律法を与えられたのも彼であった。キリストは、シナイの荘厳な栄光の中から、すべての人に父なる神の十誡を宣言された。石の板に刻まれた律法をモーセに与えたのも彼であった。」―人類のあけぼの上巻433-435


出エジプトにおける隅のかしら石


 神は、ご自分の民を導く代表者として、モーセを召されました。彼は、初めは自分には能力がないと感じ、言い逃れをしました。「『……わたしは口も重く、舌も重いのです。』―神は彼を元気づけられた、―『それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう。』」(出エジプト記4:10, 12)

 モーセは、神がご自分の民をエジプトから救出するためにお用いになった器でしたが、すべての状況において、彼は民を自由に導くために、神とこのお方の「使」に頼りました。従って、モーセについては「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」(ヘブル11:27)と記録されています。危険や侮辱の只中にあって、彼の思いには神が、常に存在していました。主が彼のいと近い助けでした。このお方は、モーセが寄り頼んでいた岩でした。

 エジプトから契約の地への脱出が始まってから後に、イスラエル人たちは紅海を渡りました。しかし、カナンにはいることを拒んだ故に、彼らは荒野で40年間放浪しなければなりませんでした。霊感を受けたペンは次のように記しています。「イスラエル人が荒野を四十年もさまようことは、神のみこころではなかった。神は、彼らをまっすぐにカナンの地に導いて、彼らをそこで、聖く幸福な国民として定住させようとしておられた。しかし、「彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえで」あった(ヘブル3:19)。堕落と背信のために彼らは荒野で滅び、他の者たちが約束の国に入るために起こされた。」–各時代の大争闘下巻182

 そうです、10人の斥候がその地を探って帰ってきて、否定的な報告をした時、ヘブル人たちの即座の反応は、彼らの考えによると、他に何の解決策がなく、神の裁きを恐れる他に何もない状況に置かれたと嘆き悲しむことでした。ある人々は、神の決定を受け入れることを拒み、モーセがそうしないように警告したにもかかわらず、自分たちで出て行ってカナンを征服しようと試みました。そして彼らは激しく打ち負かされました。

 その後、他の人々は、コラとダタンとアビラムに導かれて、モーセの権威を拒み、民を褒めそやし、250人のつかさたちの支持を得ました。「彼らはモーセが自分の権威を確立するために、神の指示のもとに行動しているふりをしたと非難したのである。そして彼らは、もはや彼の野心的計画のままに、盲目的に、カナンに向かってみたり、荒野に向かってみたりはしないと言った。こうして、やさしい父親、また忍耐深い羊飼いのようであった彼を、極悪非道な暴君、または強奪者のように彼らは言うのであった。彼ら自身の罪の罰として、カナンにはいれなくなったことを、モーセのせいにしたのである。」―人類のあけぼの上巻482,483

 これらの反逆者と彼らに従った者たちの運命は、死でした。「モーセは……神の指示によって、人々に命じた。『どうぞ、あなたがたはこれらの悪い人々の天幕を離れてください。彼らのものには何にも触れてはならない。彼らのもろもろの罪によって、あなたがたも滅ぼされてはいけないから』……。

 彼が語り終えると、堅い大地が裂けて、反逆者たちは彼らのすべての持ち物と共に、生きながら穴の中に落ちていった。そして、「彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた」。人々は、その罪に関与した自責の念にかられて逃げ去った。

 しかし、刑罰はこれで終わったのではなかった。雲から火がひらめいて、薫香を供えた250人のつかさたちを焼き尽くした。」–人類のあけぼの上巻484,485 その反逆の結果、命を失った者たちは14,700人でした。

 それらすべてのことに関わらず、神の憐れみはまだ彼らを「わたしの民」と呼びました。「わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。」(レビ26:12)このお方は彼らを愛し、彼らを保護し、彼らに指導者を与え、彼らを祭司と部族に組織しました。しかし彼らはいつも感謝の気持ちがありませんでした。コラの反逆の後、彼らは抗議する理由を探しており、それはシンの荒野において起こりました。「すなわち民はモーセと争って言った、『さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。』」(民数記20:3,4)

 この大きな抗議に直面して、「そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、主はモーセに言われた、『あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい』。モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、『そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか』。モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出た……」(民数記20:6-11)

 この時、地上で最も柔和な者であったモーセは、忍耐をなくし、彼らを「背く人たち」と呼びました。彼は実際に、彼らに真実を伝えていたのですが、それは正しい精神ではありませんでした。真理を伝えることは正しいことですが、それは怒ってするべきではありません。神の命令は、「岩に命じ」るように、でした。モーセはそれを打つべきではありませんでした。なぜならその岩または石は、キリストを表していたからです。モーセは、「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と言った時、もう一つの過ちを犯しました。モーセは激怒して語りました。彼は、力を持っていたのは自分でも自分の兄でもなく、神であることを知っていました。彼は、岩から水を出すことはできませんでした。神だけがそうすることができました。渇いた魂を救う働きは、神だけが持っておられる特権であって、それは人のものではありません。従って、神はモーセに「岩に命じ」るように言われたのでした。

 この経験について、預言の霊はこのように述べています。「荒野におけるイスラエル人のかわきをいやした泉の水は、まず、最初にホレブの打たれた岩から流れ出た。彼らが、放浪していた全期間を通じて、必要な場合は、どんなところでも、神のあわれみ深い奇跡が行なわれて、水が供給された。……彼らの旅の途中で、水が必要なときには、どこでも宿営のそばの岩の裂け目から水がわき出た。」―人類のあけぼの下巻8

 「清水をイスラエルのために流れ出させたのは、キリストが、ご自分のみことばによってなさったのである。『彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない』(コリント第一10:4)。彼は、霊的祝福と同様に、すべての物質的祝福の源である。真の岩なるキリストは、彼らの放浪期間を通じて、彼らと共におられたのである。『主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。』『かわいた地に川のように流れた』(イザヤ書48:21、詩篇105:41)。
 打たれた岩は、キリストの型で、この象徴によって、最も尊い霊的真理が教えられた。」―人類のあけぼの下巻8,9

 今日、わたしたちはその岩にどのように命じることができるでしょうか。この岩がどなたであるかをわたしたちは悟っているでしょうか。「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」(コリント第一10:4)岩、すなわち隅のかしら石または生ける石に命じるとは、このお方に祈り自分自身を明け渡すということです。クリスチャンは岩を打ちません。なぜなら、こうすることは彼を契約の地から締め出すからです。主はご自分のみ言葉によって言われました。「またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう。」(マタイ21:44)


新約聖書における隅のかしら石


 イエスはペテロに言われました。「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)教会はこの岩または隅のかしら石の上に築かれました。それは迫害されても、悪い取り扱いを受けても、中傷されても破壊されることはありません。

 「キリストがこのことばを語られたとき、教会は、何と弱々しくみえたことだろう。信者はほんのひとにぎりしかなく、この人々に向かって悪鬼と悪人の全勢力が向けられるのであった。それでもキリストに従う者たちは恐れないのであった。力の岩なるキリストの上に建てられているので、彼らを打ち倒すことはできなかった。

 6,000年の間、信仰はキリストの上に築かれてきた。6,000年の間、サタンの怒りという洪水と嵐がわれらの救いの岩なるキリストを襲った。だがそれは動かされることなく立っている。」―各時代の希望中巻181

 この岩、すなわち選ばれた尊い隅のかしら石は、遠く離れた人々の心と敵―ユダヤ人と異邦人を互いに一つの民に一致させます。従って、わたしたちは真理の同じ土台の上で、確信をもって進むことができ、このお方の恵みによって、以下のように宣言している聖書が成就するということを固く信じることができます。「聖書にこう書いてある、『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』。」(ペテロ第一2:6)

 「キリストご自身が築かれた土台の上に、使徒たちは神の教会を建てた。聖書の中で、神殿建設の姿は、しばしば教会の建設の例として用いられている。……

 使徒たちは、ユダヤ人の世界と異邦人の世界という石切り場で、土台を築くための採石の仕事をしていた。パウロは、エペソの信者たちに宛てた手紙の中で述べている、「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」(エペソ2:19-22)。……

 最初の建設者らは、次々に敵の手にかかって倒れた。ステパノは石で打たれ、ヤコブは剣で殺され、パウロは首をきられた。ペテロは十字架につけられ、ヨハネ島流しにされた。しかし教会は成長していった。倒れた人たちのあとを新しい働き人たちが受けついで、一つずつ石が加えられていき、こうして神の教会の宮が徐々に出来上がっていった。」–患難から栄光へ下巻303-305

 彼らのように、わたしたちも教会において、また個人的生活において多くの困難に直面します。わたしたちは、カナンに入る前にふるわれ試みられます、もしわたしたちが終わりまで耐え忍び、調査審判において、神の恵みによってキリストの義によって覆われるなら、後の雨の力の下に、わたしたちはこのお方の働きにおいて前進し、契約の地で会うのです。愛する兄弟姉妹方、勇気を出してください!終わりは非常に近いです!戦う教会が、勝利する教会となる時は直ぐ来ます!

 近い将来を見る時、わたしたちは神の小羊が、このお方の御名と御父の御名が彼らの額にしるされた贖われた者たちと共にいるのを見ることができます。信仰によって、わたしたちは、琴の音と贖いの新しい歌を歌う数え切れない声を聞きます。144,000人について、ヨハネは証言しました。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(黙示録14:4)

 告白したすべての罪を許される隅のかしら石に立って、わたしたちはそこにいることができるのです。なぜなら、このお方は、わたしたちがシオンの山で会う時まで、わたしたちを守ってくださるからです。アァメン

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