闘争する教会 by デジョン・カン(韓国)


神の御計画 


 「更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、」(エペソ3:9〜10)。

 神は永遠の昔から隠された奥義の御計画を持っておられたが、それは御自分の知恵と愛を全世界と天の権勢者たちに理解させるためであった。神はこの御自分の計画を成就されるためにこの地に教会を建てられた。

 「教会を通して神の満ちあふれる豊かさを世界に反映させることが、神のはじめからのご計画であった。暗やみから驚くべき光に招き入れられた教会員たちは、神の栄光をあらわさなければならない。教会はキリストの恵みに富んだ宝庫であり、教会を通して神の愛がついには『天上にあるもろもろの支配や権威』に対してさえも十分明らかに示されるのである(エペソ 3:10)。」−患難から栄光へ上巻1ページ

 教会はキリストの血によって救われた魂たちが集まる共同体である。キリストは頭であり教会は彼の体であり、一人ひとりは肢体である。それだから神の救いの計画を成就することにおいて、キリストと教会は同じ使命を持っていて、一つの共同体としての運命を共にしていることが分かる。

 「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。」「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである」(コリント第一12:12、26、エペソ5:30)。

 もし、善悪の大争闘で教会が勝利できないなら、キリストの犠牲と死は無駄になり、神のご計画は失敗するという事実を理解する必要がある。

 人は深刻な疾病によって腕と脚を体から切断させて生命を保たなければならない場合がある。しかし頭と体の分離を想像することはできない。それはすなわち死を意味するからである。そのように救いの計画において、キリストと教会を分離して考えることは決してできない。なぜならキリストは頭であり教会は彼の体であるからである。キリストと教会は一つの体であり共同体である。

 「キリストとキリストの教会との関係は非常に密接でありまた神聖である。キリストは花婿であり、教会は花嫁である。キリストはかしらであり教会は身体である。したがってキリストにつながることはキリストの教会につながることになる。」―教育317ページ

 「キリストとそのお方の教会は分離することができない」―3TT418ページ


一つの体、一つの教会


 神はこの地の御自分の教会を血で買われた教会だと言われた。「神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」(使徒行伝20:28)。またキリストは教会のためにご自分の命を捧げられたと言われる。

 「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように」(エペソ5:25)。

 キリストは罪人、すなわち一人の魂のために死なれたことも事実であるが、教会(共同体)のために死なれたということを知ることは教会の特権である。神の救いの計画には人を救うことよりもっと広範囲で深い目的があるということを証のみ言葉から知ることができる。

 「贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。」―人類のあけぼの上巻61ページ

 教会は人類を救うことよりもっと深く広範囲な目的のためにたてられたということをすべての聖徒たちが悟るならどれくらい良いであろうか!

 神の律法を擁護し、そのお方の御品性を表すために選ばれた民が神の教会の構成員になった。一つの頭に一つの体があるように、この地上に神はただ一つの教会を持っておられることを記憶しよう。

 「神は踏みつけられた律法を高め、世の罪を負っている神の小羊を世に表す一つの教会をこの世に持っておられる。教会は神の恵みの宝を保管する場所である。だから教会を通して神の愛が完全に表され、その栄光によって世を明るくするのである。」―2TT356ページ

 「兄弟姉妹よ、キリストはその所有であり、要塞として選ばれた一つの民である教会を持っておられることを考えなさい。キリストは反逆した世に砦(とりで)を持っておられる。キリストはその中でご自身のもの以外のいかなる律法も権威も認めないように求められる。」―TM16


戦う教会


 地上の神の教会は戦っている教会である。まだ勝利した教会ではない。

 「神は生ける教会を持っているのではないか。神は一つの教会を持っておられる。それは勝利した教会ではなく、戦う教会である。」―Last day events,52p

 戦う教会とは何を意味しているのであろうか?黙示録12:7には天に戦いがあったということを記録している。すなわち、キリストとサタンとの戦いの歴史である。善悪の大争闘は天から始まったが、アダムとエバの罪によって戦いはこの地上に移り、それは今もなお続いている。今、教会はこの戦いに参加している。天から始まった戦いは神の律法に関することであることを私達は知っている。サタンは神の愛と知恵、秩序に反逆し、天使と他世界の人々に神のご品性を誤表した。彼は神のご品性の写しである律法は不完全で、変更しなければならないものであると主張している。

 「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。」―人類のあけぼの上巻62ページ

 「サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した。事実、自分の力では、わたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合する時、人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。」―キリストの実物教訓294ページ


律法の戦いに参加する


 善悪の大争闘の中で教会は律法の戦いに参加している。キリストは人性をもってこの世に来られて、律法を完全に守り、罪のない生涯を送り、勝利された。キリストは宣言された。「・・・だれがわたしに罪があると責めうるのか」(ヨヘネ8:46)。「この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」(ヨハネ14:30)。

 今日地上にある神の教会もこのように宣言されなければならない。これが神のみ旨であり、ご計画である。

 「イエスの中にはサタンの詭弁(きべん)に応ずるものは何もなかった。イエスは罪に同意されなかった。1つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエス聖霊の内住によって戦いに備えられた。」―各時代の希望上巻135ページ

 「救い主は律法に服従した一生によって、律法の要求を支持された。それは人性のうちにあっても律法を守ることができることを証明し、律法に従うことによって養われる品性のすばらしさを示した。キリストのように律法に従う者はみな同じように、律法が『聖であって、正しく、かつ善なるものである』ことを宣言しているのである(ローマ 7:12 )。一方、神の戒めを破る者はみな、律法が不正であって従うことのできないものであるというサタンの主張を支持しているのである。こうして彼らは大敵サタンの欺瞞の後おしをし、神をはずかしめる。彼らは神の律法に最初に反抗した悪者サタンの子らである。」―各時代の希望中巻15ページ
 
 今日教会は神の律法は守ることが出来ないという不信と戦わなければならない。しかし、多くのクリスチャンは信じるといいながら、サタンの側に立って彼を支持しているということは実に驚くべきことである。


不法の時代との戦い


 教会は神の律法を守るために努力しなければならない。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:12)。不法の時代に私達は住んでいる。安息日を守ることは特別にサタンの攻撃の的となる。であるから、教会はこの悪の勢力と戦わなければならない。

 「人々が考え、行っていること以上に安息日問題は神聖である。文字通りにおいても、精神的においても、安息日を守らない人々によって、キリストは辱められている。」―6T353p
 
 「それから、わたしは苦悩のうちに叫んでいる一団の人々を示された。彼らの着物には大きな文字で、『あなたははかりで量られてその量の足りないことがあらわれた』と書いてあった。・・・彼らは深い流れの水を飲んだのに、その足で残りの水をにごらせた、―安息日を足の下にふみにじったーこと、そして、そのために彼らは、はかりで量られて、その量の足りないことがあらわされたことを、わたしは見た。」―初代文集97ページ

 預言者は救いに失敗した群を見た。彼らは安息日を踏みにじったことで足りないという宣告を受けた。この宣告は今日の教会に与えられている警告でもある。教会はみ言葉通りに安息日を守るように民に教えなければならない。神のすべての律法は人間の幸福のために作られたことを覚えなければならない。

 「また彼らに言われた、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。』」マルコ2:27

 教会は不法の時代と戦わなければならない。



安息日を聖別し準備しなさい


 「安息日の準備は、金曜日に完成するようにしなさい。すべての衣服が準備され、料理も全部終わるように取り計らいなさい。靴はみがき、おふろはすませなさい。そうすることは可能である。それを習慣にすれば、できるのである。安息日は、衣服の修繕をしたり、食物の煮たきをしたり、快楽を求めたり、あるいは、その他どんな世的な事のためにも使ってはならない。日没前に、すべて、世俗的な仕事はやめ、通俗の読み物は、見えない所に片付けてしまいなさい。両親よ、あなたがたのすることとその目的を、子供たちに説明し、安息日を戒めに従って守るための準備に彼らを参加させなさい。

 われわれは熱心に安息日のふちを守るべきである。各瞬間が聖別された清い時間であることを覚えなさい。できる限り、雇用者は金曜日の正午から安息日の始まるまでの時間を、働き人たちに与えるべきである。彼らが静かな気持ちで、主の日を迎えることができるように、準備をする時間を与えなさい。そういうやり方をすることによって、あなたは、たとえこの世の物においても損はしないのである。

 日没前に、家族の者は、聖書を読み、歌い、祈るために集まりなさい。多くの者が、この点に不注意であったから、改めることが必要である。・・・安息日が終わって太陽が沈む時、祈りの声と賛美の歌によって、神聖な時間の終わりを示し、働く1週間の労苦を通して神が共にいて下さるように求めなさい。

 主に対して安息日を清く守ることは、永遠の救いを意味するのである。神は『わたしを尊ぶ者を、わたしは尊』ぶと言われる(サムエル上 2:3 0 )。 ―6T353〜359ページ
服従する者に約束された祝福を、望むならば、われわれは、もっと厳格に安息日を守らなければならない。われわれは、避けることもできるのに、よくこの日に旅行をするのではないかと、わたしは恐れる。安息日遵守に関して、主が与えて下さった光に調和し、われわれは、この日に船によっても、車によっても、旅行をすることにつき、もっと注意深くなければならない。これらの問題で、われわれは、自分たちの子供や青年たちの前に、正しい模範を示さなければならない。われわれの助けを必要としている教会に到着して、神が彼らに聞かせたいと望まれるメッセージを彼らに与えるためには、安息日に旅行しなければならないかもしれないが、できるかぎり他の日に、切符を買い、すべて必要な手はずを整えておくべきである。旅に出かける時は、安息日に目的地に着くことを避けるような計画を立てるために、あらゆる努力をすべきである。」―6T357〜360ページ
 
 神のすべての律法は人類の幸福のために制定されたことを覚えなければならない。

 「また彼らに言われた、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。』」(マルコ2:27)




偽りとの戦い


 サタンは偽りの父である。「サタンは欺瞞的力をもって、真理を不明瞭にする誤謬を数多くもたらしてきた。」Letter 43,1895年

 サタンは欺瞞を用いて神の民が完全な品性に到達するのを失敗させてきた。

 「サタンが人の心を支配する力を手に入れるのは偽りの説や言い伝えを通してである。サタンは人々を偽りの標準へ向けることによって、まちがった品性を形成する。」
―各時代の希望下巻156p

 教会は「三天使の使命と基本教理、信仰による義とキリストの義、天の聖所、調査審判、14万4千人の印する働き、黙示録18章の天使の使命、後の雨と大いなる叫び」等の「現代の真理」を明確に教えなければならない。

 「教理は明らかに理解されなくてはならない。真理を教えることを認められた者はしっかり錨で固定されなくてはならない。そうするときに、彼らの船は嵐と暴風雨に対して持ちこたえるであろう。錨が彼らを固く保つからである。欺瞞は増加するであろう。」Letter 1,1897年
 
 「虚偽の教理を通してサタンは足場を得、人々に実際は土台を持っていない理論をつかませて、彼らの心を虜にする。」Letter 43,1895年

 サタンは選ばれた者をも惑わす。教会は偽りと戦わなければならない。


互いに愛し合う教会


 世から離れる前、キリストは弟子達に言った。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」」(ヨハネ13:34,35)。

 キリストから「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」という命令が与えられた。キリストが弟子達をどのように愛されたのかを考えてみよう。キリストを敵に売ったイスカリオテのユダを考えてみよう。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ26:24)。

 キリストはユダが御自分を敵に売ることも、彼が救われないこともご存知であった。しかし、キリストは彼が救われる者のように愛し、彼のために犠牲を払われた。私達もこのように兄弟を愛さなければならない。教会の中にはヤコブの12人の息子やキリストの12弟子のように、いろいろな個性と弱さを持った人々がいる。その中には愛するのが難しい人や、自分の心に傷ばかり与える人もいる。このような兄弟姉妹を愛することは簡単なことではない。しかし、キリストの命令は何であろうか?「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」である。

 兄弟姉妹方よ、あなたは戒めを守っていると自慢しているだろうか。富める青年のように、殺人、姦淫、盗み、偽証をせず、親を敬い、安息日も守っていると話しているだろうか。しかし、イエスは言われる。「あなたのする事がまだ一つ残っている」(ルカ18:22)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。人々は富める青年のように愛することのできない兄弟を愛することは難しいと思う。

 神は愛である。神の本質は愛であり、神の律法は愛である。神の創造の働きも愛であり、贖いの働きも愛である。神が支配する全ての世界と罪の反逆を終える贖いの働きも神のご性質を示している。

 「まだ罪人であった時」(ローマ5:8)、御子をくださった神の愛、「わたしたちが敵であった時でさえ」(ローマ5:10)、十字架の上で死なれたその愛が神の律法である。この愛を持っている者だけが、真に神の律法を守る者である。私達は本当に神の律法を守っている民であろうか。



義の武具を着て戦う



 「教会はキリストの義の武具をまとって、最後の争闘を始めなければならない。『月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のよう』に、教会は全世界に出て行って、勝利に勝利を収めなければならない(雅歌 6: 1 0 )。」―患難から栄光へ下巻325ページ

 最後の教会はキリストの武具、すなわちキリストのご品性によって準備されていなければならない。敵のために祈ったキリストの精神がすべてのクリスチャンの精神から表されなければならない。神こそが真の愛を持たれる方である。神の民は神の律法を完全に守ることができるということを全世界、全天に証しなければならない。

 「世界は、神に関する誤った解釈の暗黒におおわれている。人々は、神の品性の知識を見失い、それを誤解し、誤って理解している。」―キリストの実物教訓391ページ

 教会をたてられた神のご目的を忘れないようにしよう。

 「教会を通して神の満ちあふれる豊かさを世界に反映させることが、神のはじめからのご計画であった。・・・教会を通して神の愛がついには『天上にあるもろもろの支配や権威』に対してさえも十分明らかに示されるのである(エペソ 3:10)。」―患難から栄光へ上巻1ページ
 
 この時サタンの頭は砕かれるようになる。「教会は悩みが与えられる。教会は荒布をまとって預言をするようになる。欺瞞と迫害に会い、不信者や背教者と戦わなければならないが、教会は神の助けによってサタンの頭を砕くようになる。」−1TT590ページ
 
 今日もこの目的の為に教会は悪に抵抗し、神の栄光で全世界を輝かすために愛を実行しなければならない。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27)。

 私達の教会が最後に神の愛を表す清められた群となるように祈りましょう。アァメン

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