勝利する教会 byアイデル・シュアレツ・Jr.(アメリカ)


主人は二人であるが心は一つ


 アレキサンダーペルシャ帝国の最後の皇帝であったダリヨスと戦っていました。ダリヨスは自分の終わりが近いことを知って、休戦を申し出ました。ダリヨスは、アレキサンダーに「全世界を共に治めよう」というメッセージを送りました。アレキサンダーは、「二つの太陽が空を支配することがないように、二人の主人が地を支配することはできない」と答えました。彼はダリヨスを打ち負かし、後に彼の娘を自分の妻にしました。

 同じように、二人の主人がわたしたちの心、また思いを治めることはできません。イエスは言われました。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

 わたしたちの三つの主な敵―罪と世と悪魔―が、それぞれわたしたちに休戦するように誘惑する時、わたしたちはアレキサンダーのように「二人の主人がわたしの心を支配することはできない」と答える必要があります。罪と世と悪魔との妥協はありえません。

 「神の律法と完全に調和して、正当に励むすべての者に勝利がある。彼らは、すべての反対に対して勝利を得る。彼らがすべての敵に直面して、神の働きを進展させる時、彼らは聖天使の守護を与えられるのである。……
 命の御言葉を固くつかみなさい。反対の嵐は、その激しさのうちに消滅するのである。騒ぎは消え去る。大胆に快活に、主の働きを前進させなさい。ご自分の選ばれた者たちを最も優しい配慮をもって見守られる天父は、このお方の御名によってなされた努力を祝福される。このお方の働きは、『恵みあれ、これに恵みあれ』という勝利の叫びのうちに完成されるまで、終わることがないのである。」–(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1900年11月14日)あなたは力を受けるp371


白い馬に乗った勝利者


 歴史家は、偉大な戦士の多くは、白い馬に乗っていたということを教えています。ペルシャのクロスは白い馬を持っていました。アレキサンダーも白い馬を持っていました。ナポレオンも白い馬を持っていました。ジョージ・ワシントンも白い馬を走らせました。もしかすると白い馬は、権威と勝利の象徴だったのかもしれません。

 同じように、使徒ヨハネは、弓を手に持ち頭に冠をかぶり、白い馬に乗っている者によって表されている使徒教会の時代の福音の勝利を見ました。ある意味では、初期のクリスチャンは、勝利する教会を構成する最後のクリスチャンを予示していました。初期のクリスチャンは、前の雨を受けました。彼らは福音のメッセージを、一世代においてすべての国民に伝えました。彼らは、神の栄光を、その時代知られていた世界に明らかにすることができました。「そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。」(黙示録6:2)

 パウロは、彼の時代に「すでに聞いている福音……は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。」と書きました。(コロサイ1:23)

 「弟子たちは、キリストから与えられた任務を果たした。十字架の使命者たちが出かけて行って福音を宣べ伝えたとき、かつて人間が見たことのないほど神の栄光があらわされた。聖霊の協力によって、使徒たちの働きは世界を動かした。わずか一世代のうちに福音はすべての国々に行き渡った。キリストに選ばれた使徒たちの働きは、輝かしい成果を伴った。」–患難から栄光へ下巻301

 同じように、クリスチャンの最後の世代、すなわち改革者、また戦う教会のメンバーとして知られている者たちは、後の雨を受けるように運命づけられています。彼らは福音をすべての国民とすべての造られた者に宣べ伝えます。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ24:14)


戦う教会と勝利する教会の旗
 

 最後のクリスチャンを見て、雅歌の著者は、信者を美しく秩序の整った軍隊として描写しています。「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」(雅歌6:10)

 戦う教会と勝利する教会の旗は、イエス・キリストです。それはカルバリーの血によって染められた旗です。その旗には「エホバ・ニッシ(Jehovah Nissi)―主はわれらの旗」と書かれています。軍隊と同じように、教会の任務は、旗を前へ上へと進ませ、真理の旗を上げ、天と地の王である主であるお方の領土を得ることです。

 アメリカ人がアポロ11号に乗って、1969年7月20日の記念すべき日に月に到達した時、彼らの月面着陸船はイーグル(わし)と名付けられました。ニール・アームストロングアメリカの旗を月に立てた時、彼はそれを国のためであると宣言しました。オバデヤ1:4の興味深い聖句を見てください。「たといあなたは、わしのように高くあがり、星の間に巣を設けても、わたしはそこからあなたを引きおろすと主は言われる。」

 しかし、わたしたちは霊的王国において違った旗を持っています。イエスの旗は、人々の心と思いに立てられなければなりません。高地、他の世界、他の銀河、第一と第二の天を超えた異なった次元、すなわち神がご臨在なさる第三の天に達することを望む者にとって、イエスは初めであり最も重要なお方とならなければなりません。

 宇宙飛行士たちが月に着陸した時、何という歓喜アメリカを包んだことでしょう!しかし、選ばれた者たちが、オリオンの向こうにある第三の天のパラダイスに到達した時は、さらに大きな喜びがあるでしょう。

 パウロは、ヨハネと同じように、幻の中で天のパラダイスに連れて行かれました。「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は14年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。」(コリント第二12:1〜4)

 銀河系星雲の彼方にある第三の天において、信じる聖徒が経験するその栄光、喜び、輝き、恍惚は言葉で描写することはできません。火の戦車で、聖天使と共に主の宣教師の軍隊は、広大な宇宙を通って、他の次元―パラダイスへと導かれます。

 真理の旗を持ち運び、すべての造られた者に福音を伝え、そうすることによって教会の勝利をもたらすために、あなたは何をしていますか?あなたは、天のシオンに前進する主の軍隊の一部ですか?


勝利する教会の定義


 勝利する教会は、天の教会として表現されています。なぜなら「……聖書に書いてある言葉が成就するのである。死は勝利にのまれてしまった。」(コリント第一15:54,55)地上における最後の世代は、世の前で彼らの品性のうちに神の栄光を反映します。彼らはイエスの忠実で従順で完全な弟子です。栄光のうちにこのお方の前に立つ前に、彼らは額に神の生ける印を受けます。彼らは天のシオンにおいて、イエスと共にいると描写されています。彼らは、永遠に神と共に住むために贖われた者たちです。なぜなら、彼らは地上にいる間に勝利したからです。

 「残りの民は、小羊の血と彼らのあかしの言葉によって勝利すべきである。ある人々は、小羊の血だけで勝利するものと思って、自分たちで特別の努力をしていない。神は、恵みのうちにわれわれに言葉の力をお与えになったことを、わたしは見た。神は、われわれに舌をお与えになった。われわれは、その用い方について神に責任を問われるのである。われわれは、われわれの口をもって神に栄光を帰し、真理と神の限りないあわれみをほめたたえ、小羊の血によるわれわれのあかしの言葉によって勝利しなければならない。」–初代文集215,216

 「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、144,000の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた144,000人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(黙示録14:1〜5)

 ある者たちは、すでにパラダイスの敷居を跨ぎました。エノク、モーセ、エリヤ、また24人の長老は、いつか神の御前で生きる贖われたすべての者たちのしるしです。十字架に付けられ、よみがえられたわたしたちの救い主と共に、彼らは勝利した教会の他のメンバーのすべての者が彼らと、常に神に仕え、このお方のいと高き聖なるみ心を成し遂げる天使の軍勢に加わることができる日を待っています。しかし今、これらの天の見張り人たち、すなわち、すでに勝利した教会のメンバーであると言われている者たちは、わたしたちに近づこうとします。それはなんのためでしょうか。「勝利した教会―天の教会―のメンバーは、必要としている彼らを助けるために、戦う教会のメンバーの近くに近づくことを許される。わたしたちは、自分たちが神との共労者であるということを、常に覚えていようではないか。」–サザン・ウォッチマン1903年9月8日

 イエスの旗を掲げ、地上においてこのお方のご生涯を生き、このお方のメッセージをこの地上にいる他の人々に伝える者たちは、勝利する教会の候補者たちです。第三天使のメッセージを忠実に生きる者たちだけが、キリストの来臨を生きて見ることができ、または特別復活の時によみがえって、白い雲と栄光のうちに人の子が来られて、福音を伝えるために働き生きた者たちに栄光を与えられるのを見ることができるのです。

 「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。」(黙示録14:12〜14)

 「働きは間もなく終わる。忠実であることを証明した、戦う教会のメンバーは勝利した教会となる。」–伝道p707

 「地上にいる教会は完全ではない。戦う教会は、勝利した教会ではない。地上は天国ではない。」―エレン・G・ホワイト1888年の資料p249


勝利の秘訣


 使徒パウロは、人が勝利することができるのは、キリストによってであると述べています。キリスト・イエスは勝利の秘訣です。「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」(コリント第二2:14)

 彼が、コリントの教会にこれらの言葉を書いた時、使徒は、ローマの軍隊が勝利してローマの都市に戻って来る時の鮮明な光景を想像しました。彼らは都市に入る時、奴隷と捕虜を連れてきました。ある者たちは自由にされ、他の者たちは犠牲にされました。上品に着飾った処女は、香を抱えて、兵士の間を走りました。ローマの兵士と百卒長にとって、この香は命に至る香りでした。しかし、同じ香は、捕虜にとっては死に至る香りでした。

 香は祈りの生涯を送られたイエスの象徴です。賢者が捧げた乳香は、このお方の生涯が祈りの生涯―公のまた個人的に信じる祈り―になるということの前兆となりました。このお方には金が与えられました。金は信仰と愛を象徴しています。それはイエスがラオデキヤ教会に提供される、霊的な金です。このお方の生涯は、心の貧しい者、社会ののけ者、囚人、病人、忘れ去られた者に対する愛に満ちた奉仕の生涯でした。このお方の生涯は、社会の祝福と神の栄光のために奇跡を行う信仰の生涯でした。来るべき生涯のためにわたしたちを準備するこの生涯における勝利の秘訣は、密室の信じる祈りです。これはわたしたちが福音を伝え勝利を得るために、わたしたちを準備するのです。

 「密室の祈りを怠ってはいけない。もしこの地上での生活が危険にさらされているならば、熱心に嘆願しなさい。言葉では表すことのできない願いがあなたの内で生まれ、許された罪のために麗しい証拠が得られるまで、神の前に残りなさい。あなたが勝利を得て、贖い主によって勝利することができるまで、武具を脱いだり戦場を去ったりしてはいけない。」–サインズ・オブ・ザ・タイムズ1884年5月1日

 ヨルダン川を渡り、契約の地に行く前に、ヨシュアがしたことを覚えていますか。彼は脇に寄って神に密かに祈りました。彼は、神が彼に聞かれ彼を助けられるということを信じて、熱心に祈りました。その結果は何でしたか。主がイスラエルの軍隊をエリコの回りに導かれ、城壁が崩れ落ちたのです。イスラエルは彼らの敵に勝利し、彼らの征服の初穂を神に捧げたのです。彼らは勝利したのです。

 同じように、わたしたちは福音を伝え、すべての悪に勝利するために、密かにもっと祈る必要があります。密室の祈りは、戦う教会が勝利した教会になるために準備するのです。

 「真剣に信じる心から出る祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。神は、わたしたちが求めるようにいつもわたしたちの祈りに答えられるわけではない。なぜなら、わたしたちは、自分にとって最善のものを求めないかもしれないからである。しかし、このお方の無限な愛と知恵によって、このお方はわたしたちが最も必要としているものを与えられる。手が弱くなった時に力づけ、信仰と祈りによって手を上げてくれる忠実なアロンとホルがいる牧師は幸いである。そのような支えは、キリストの僕の働きにとって力強い助けとなり、しばしば、真理の働きが輝かしい勝利を得るようにするのである。」–教会への証4巻p531
 
 信仰の創始者であり、その完成者であられるイエスを眺めなさい。このお方は祈りのうちに神と奮闘されました。彼は勝利するために叫ばれ、さらに血の大きな滴りを流されたのでした。「世の罪がこのお方の上にのしかかった。このお方は、天父の律法の違反者として、人間のために苦しんでおられた。ここに誘惑の場面があった。神の光が視野から退き、暗黒の君の手に渡される。その魂の苦悩の内に、このお方は冷たい地面にお倒れになる。このお方は天父の不興を認識しておられた。キリストは罪深い人間の唇から苦しみの杯を取り上げ、それを自ら飲むことを申し出られた。その杯の代わりに、人には祝福の杯をお与えになった。」–神の驚くべき恵みp169
 
 このお方はわたしたちの身代わり、わたしたちの保証人、わたしたちの模範となられました。もしイエスが勝利するために密かな祈りのうちに格闘する必要があったとしたら、もう一年が終わり、新しい一年に入る今日のわたしたちはなおさらそうする必要があるのではないでしょうか。

 「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、」(ヘブル5:7〜9)


勝利する教会の喜び


 わたしの父は、自分が小さかった時の話をわたしにしてくれます。父は第二次世界大戦が終わった時のことを覚えています。父は列車の警笛が鳴り、教会の鐘が鳴った時のことを覚えています。至る所に喜びの雰囲気が広まっていました。人々は喜んで飛び跳ね、手をたたき笑っているように見えました。枢軸国(注:ドイツとイタリア、のちに日本)が連合国に降伏して、ついに平和がやってきた事をみんなが喜んでいるようでした。

 そして、神とサタンの間の大争闘の終結の知らせが、堕落してない世界にどんな喜びをもたらすことでしょうか。贖われた者と天の軍勢が、どんな喜びの賛美を歌うことでしょうか。
 鍵穴を通して見るように将来を覗いて、勝利した教会を見てみましょう。その日は、なんという喜ばしい日でしょうか!それは、聖書では喜ばしい婚宴―大きな祝い―に比べられています。
 かつてある牧師の妻が、わたしたちすべての者が天に行く時、三つの驚くことがあると言いました。第一の驚きは、天国に決して入れないだろうと思っていた人たちが、勝利した聖徒の中にいるのに気がつくこと。第二の驚きは、そこにいるであろうと思った人たちがいないのを見つけること。最後で最大の驚きは、自分がその栄光に輝く場所にいるのを見いだすことです。
 純潔な白い衣を身につけ、金の冠をかぶり、手にしゅろの葉を持ち、もう一つの手には琴を持っている聖徒たちを想像してみてください。彼らが、ガラスの海の水の上を実際に歩き、整列してモーセと小羊の歌を歌っているのを見てください。一人一人は自分の冠をイエスの足もとに投げ出します。一人一人が、このお方はすべての誉れと礼拝と賛美を受けるのにふさわしいと宣言するのです。

 その後、イエスは彼らを命の木のところに導かれ、彼らはアダムとエバがパラダイスの園で食べたのと同じ木の実を味わうのです。贖われた聖徒たちは、隠されたマナを味わいます。彼ら一人一人は小さな石と新しい名を受けます。彼らは、緑の牧場、うねっている丘、しおれることのない花がたくさん咲いている草地を見る時、非常な喜びを覚えます。彼らはその他に何を見るでしょうか。空は特別な色をしています。そこには夜がありません。彼らの目の前には新エルサレムと共に天のシオンがあり、そこではすべての聖徒が特別な住居を持っています。すべての聖徒は、神の大いなる御座のある部屋において、すばらしい王座を持ちます。都の扉は、巨大な真珠によって出来ています。壁は透き通る金です。大通りはオフルの金よりもさらに高価な金で出来ています。

 使徒パウロは、「神の国」と勝利した教会の報いを見て、福音宣伝者であるイザヤの言葉を引用しました。「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」(コリント第一2:9, 10)

 最高のものはすぐ前方にあります。わたしたちは、わたしたちの主であり頭であられるイエスを通して非常に素晴らしい約束が与えられています。今、祈りの人となるという決心をしようではありませんか。わたしたちの回りにいる一人一人に福音を伝えるために献身しようではありませんか。主の軍隊に参加して、このお方にわたしたちの心を捧げ、わたしたちの心と思いに、われらの義であるキリストの旗を立ててもらおうではありませんか。わたしは皆さんがそうすることをお祈りします。

 詩篇記者の祈りを繰り返しましょう。「われらの神、主よ、われらを救って、もろもろの国民のなかから集めてください。われらはあなたの聖なるみ名に感謝し、あなたの誉を誇るでしょう。イスラエルの神、主はとこしえからとこしえまでほむべきかな。すべての民は『アァメン』ととなえよ。主をほめたたえよ。」(詩篇106:47, 48)アァメン  
                                         
 「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(黙示録14:1〜5)

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