「救いの計画と14万4千人」 第1章「生ける神の印」

まえがき

 セブンスデー・アドベンチストの先駆者たちは、「14万4千人の印する使命」を「確立された真理」として信じ、教えてきました。しかし、現代、この真理を先駆者たちが信じていた通りに信じているセブンスデー・アドベンチストの信徒はほとんどいなくなってしまいました。

 1844年10月に大きな失望を経験したにもかかわらず、真理を求め続けた少数の人々に与えられた真理は非常な苦労と激しい戦いによって確立したものでした。そしてその真理は決して変えられるべきものではないし、変えてはいけないものなのです。特にこの神の印の真理は、第三天使の使命の中心をなす非常に重要な真理であります。

 現代、再臨信徒たちの中では、自分は14万4千人の中に入らないで、「大勢の群衆」(黙7:9)の中に入れば良いとか、14万4千人は日曜休業令から数えられるとか、14万4千人という数は象徴的な数である・・・などという様々な考えがあり、多くの人々が混乱しています。また、残念なことにこの問題は自分の救いと直接関係のある問題ではないと考える無関心な信徒たちも多いというのも事実であります。

 E.G.ホワイトは次にように記録しています。「主は次のようなことをわたしにお示しになりました。『折にかなった糧である現代の印の真理が欠乏しているために尊い魂が飢え、死にかけている。』」(現代の真理1巻NO,3p3)

 サタンはこの確立された教理を変更し、混乱を起こそうと働いてきました。その結果SDA教会はこの重要な真理を見失ってしまったのでした。
 
「主はこう言われる、『あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。』」あなたはこの命令にどのように答えるでしょうか。「われわれはその道に歩まない」(エレミヤ書6:16)と答えるのでしょうか。

 あわれみ深い神はこの真理を保管されてこられました。この真理はSDAの先駆者たちが信じ、教えたとおりに今も非常に重要な真理として存在し続けているのです。

 再臨信徒は今でさえ、生ける神の印を押されないということは救われないことを意味するということをはっきりと知らなければなりません。

 読者がこの真理を学んで、神の印を受け14万4千人の一人に数えられる者となることを心からお祈りいたします。                編者



救いの計画と14万4千人



 「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、『私達の神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない。』わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。」黙示録7:1〜4

 「14万4千人」の真理は、1844年の大失望の後、ホワイト姉妹の初めの幻を通して、第三天使の使命と共に示された真理である。であるからこれはとても重要な真理である。しかし、再臨信徒たちはこの真理に対しての関心が徐々になくなってきた。第一、第二天使の辛い失望の後、落胆していた再臨信徒たちに神は預言者を通して、残りの民の旅路を示された。それは天に届く狭い道を旅している14万4千人の幻であった。これは、初代文集の「最初の幻」に記録されている。しかし、預言者をとおして示された「14万4千人の印する真理」が再臨信徒たちの間で、無関心なものとなってしまった。その結果は、どうであろうか。主の僕は次のように記録している。

 「主は次のようなことをわたしにお示しになりました。折にかなった糧である『現代の印の真理』が欠乏しているために尊い魂が餓え、死にかけています。だから使命者は出て行って、かの群に、現代の真理である糧を与えなければなりません。私はある天使が次のように言うのを聞きました。『使命者たちよ、急ぎなさい。使命を負っている者は急ぎなさい。すべての魂の運命は生か死のいずれかに間もなく決定されようとしています。』」―現代の真理1巻no3,p3

 今日、魂が霊的な飢饉によって死んでいく理由は、現代の真理である「印する使命」を教えられないからである。



エルサレムへのパスポート



 「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言 った、『私達の神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない』。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は14万4千人であった。」黙示録7:1〜4

 「信仰を告白する多くのクリスチャンが、神の日に、苦い失望に出会うであろう。彼らは額に生ける神の印を持っていない。・・・・生ける神の印を受ける者だけが、聖なる神の都の門を通過できる旅券を手に入れるであろう。」―バイブル・コメンタリー7巻970ページ

 私達が入る新エルサレムには「生ける神の印」すなわち旅券が必要であるということをおぼえていなければならない。

 「現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた。そこには箱があって、その中には主の指で書かれた十戒の石の板が納められている。

 今や、サタンはこの印する働きの時に当たり、あらゆる手段を用いて神の民の心を現代の真理から引き離し、彼らを迷わせようとしている。わたしは、神が悩みの時に神の民を守るために、彼らの上にかけておられる覆いを見た。そして、真理の側に立つ心の清い者は、全能の神の覆いに隠されるのであった。」―初代文集107ページ

 ここにサタンの策略が示されている。サタンはこの印する期間、神の民が印する使命に関心を持たないようにと働いている・・・という証は実に重要である。

 「サタンは印する働きが終わり、神の民の上に覆いがかけられるまで、彼らをそのままの状態にしておき、最後の7つの災いが下る時に、神の燃える怒りを彼らが避けることができないようにさせようと、あらゆる策を弄していた。」―初代文集109ページ

 「サタンはちょうどこの印する働きの時において、このような方法で、神の民の心を反らし、欺き、神から引き離そうとしているのをわたしは見た。ある人々は現代の真理に堅く立っていないのをわたしは見た。」―初代文集108ページ

 「主は、現代の真理を信じると言いながら、生活が、その言うところと一致していない人々を、わたしにお示しになった。彼らの信仰の標準はあまりにも低く、聖書の聖潔にははるかに及ばない。」―初代文集113ページ

 サタンはこの印する働きの間、策略を用い、この「現代の真理」に対する関心を失わせ、印を受けないようにと働いている。この問題は今日、神の民にとって非常に重要なものである。なぜなら、恩恵期間が終わる時には「生ける神の印」か、「獣の印」を受けた二つのグループしかないからである。



印される期間



 「また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、『私達の神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない。』」黙示録7:2〜3

 日の出る方から上がってきた天使が「生ける神の印」を押す働きには時期がある。証の書には印される期間の間、サタンから惑わされることがないようにと多くの警告が記録されている。「生ける神の印」を持って、日の出る方から上がってきた天使がいつから働きを始めたのかを知るのは、私達の特権である。1849年、預言者は次のような幻を見た。

 「それから、イエスからの任務を帯びた1人の天使が、地上でなすべき働きを持っていた4人の天使たちの所に、速やかに飛んでいって、手に持った何かを上下に振って、大声で、『神のしもべたちの額に印が押されるまで、待て、待て、待て!』と叫ぶのを、わたしは見た。わたしは、わたしと一緒にいる天使に、わたしが聞いたことの意味と、4人の天使が何をしようとしているのかを尋ねた。・・・・。また4人の天使たちは、四方の風を引き止める力を神から与えられていて、今にも風を吹かせようとしていたが、彼らが手をゆるめて、四方の風が吹き始めようとした時に、憐れみ深いイエスの目が、まだ印されていない残りの民をごらんになって、彼は天の父に向かって手をあげて、ご自分が彼らのために血を流されたことを訴えられたのだと言った。そこで、もう1人の天使が、4人の天使たちのところに速やかに飛んで行く任命を受けた。そして、神のしもべたちが生ける神の印を彼らの額に押されるまで、引き止めるようにと彼らに命じたのであった。」―初代文集99ページ

 この証は1849年、天使による「印する働き」が進行中であったことを示している。神は印する働きが中断されないように、天使たちに風を引き止めているようにと命令されている。

 「次に、わたしは、第3天使を見た。わたしと一緒にいた天使は言った。『彼の任務は、恐るべき任務である。彼は、麦を天の倉に入れるために、麦を毒麦からよりわけて印をおし、たばねる。われわれは、こうしたことに全身全霊をかたむけ、すべての注意を向けなければならない。』」―初代文集221ページ
 
 「わたしは、小さい群れが、狭い道を旅しているのを見た。すべての者は、真理によって束ねられ、一団となって固く結ばれているように思われた。天使は、『第三天使が、彼らを天の倉に入れるために束ねて印しているのである』と言った。」―初代文集177ページ

 黙示録7章の「神の生ける印」を持っている天使は、「第3天使」と同じ天使である。なぜなら、「第三天使」は麦と毒麦を区別し、印を押す働きをするからである。確かなことは、「第3天使」がこの地上にきた1844年から印する働きが開始したということである。



聖霊の印―生ける神の印



 各時代のわたって忠実な神の民は「聖霊の印」を受けた。これは救いの保証である。

 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」エペソ1:13

 「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。・・・」テモテ第二の手紙2:19

 アダムとエバの罪によって人間は神の印(栄光)から離れたが、キリストの救いによって再び印をうけることが可能となった。

 「神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」コリント第二の手紙1:22

 「生ける神の印」と「聖霊の印」の違いは、「生ける神の印」は1844年から開始されたということである。「生ける神の印」も聖霊によって受けるのではあるが、その働きはダニエル書8:14の預言と関連し、「2300の夕と朝」の預言と天の聖所の清めによって、この地上に生まれる神の民に押される印なのである。「聖霊の印」を受けて救われた群と、「生ける神の印」を受けて救われる民が存在する。特に第三天使の使命を受け入れた再臨信徒たちは皆、「生ける神の印」を受けて救われるのである。第三天使の使命と安息日の真理を知らない日曜教会の人々は救われても、「生ける神の印」を受けたのではなく、「聖霊の印」を受けて救われるのである。彼らは神の聖なる律法の中で第4条の安息日の律法の光を受けなかったからである。「生ける神の印」は第三天使の使命によって生まれた民、特に安息日の律法と直接的な関係がある。

 「十条ある戒めの中で、天と地の創造者であられる律法の偉大なる付与者の印を含んでいるのは第4条だけである。」―教会への証6巻350ページ

 「神の印、しるしは主の創造の記念である第七日安息日の遵守の中に表されている。『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである』」(出エジプト記31:12,13)。ここに安息日は神と神の民との間の印として明示されている。
 獣の印はこの反対のもの、つまり、週の第一日目の遵守である。この印は神の権威を認める人々から、法王の権威の優位を認める人々を区別するものである。」―教会への証8巻117ページ

 「第4条は、十戒の中で、立法者の名と称号が2つともしるされている唯一の戒めである。それは律法がだれの権威によって授けられたかを示している唯一の戒めである。このように第4条は、律法の確実性と拘束力の証拠としてそれに押された神の印を含んでいる。」―人類のあけぼの上巻358ページ

 「神の休みの日の遵守は、神に仕える者と仕えない者とを区別するしるしである。」―原稿27、1899年



安息日―神の御品性



 救われる人々は聖霊の印を受けるが、「14万4千人」は黙示録7章に示されている「生ける神の印」を受ける。これは最後のヤコブの悩みを通る人々が必ず受ける印である。この印は十戒中の第4条と関係しているので、安息日を守らなかった人々は印されることはない。しかし、ただ安息日を守れば印されるわけではない。神の全律法を守ることによって印を受けるのである。「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう」(イザヤ8:16)というみ言葉は、十戒は印であり、神のご品性の写しであるということを教えている。

 「彼らはかつて死すべき者に与えられた中で、最も厳粛な使命の下に住み、その使命を伝え、神の律法を品性の試金石、生ける神の印として示しているが、彼らは、聖なる指針に違反している。」―教会への証2巻468ページ

 「神は、神の子らに完全を求められる。神の律法はご自身の品性の写しであり、またすべて品性の標準である。神がどのような人々によってみ国を構成なさるかについて、だれも間違いをしないように、この永遠の標準がすべての者に与えられている。キリストの地上生活は、神の律法の完全な表現であった。そして、自分は神の子であると表明する者の品性がキリストのようになれば、彼らは神の戒めに従うのである。」―キリストの実物教訓294ページ

 生ける神の印を受けたということは、神のご品性を受けたということである。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)とあるように、神はその民が完全になることを求めておられる。

 「今は準備の時である。神の印は汚れた男女の額の上に決して押されない。それは野心を持っている者、世を愛しているいかなる男女の額に押されることはない。また嘘つきや心を偽るどんな男女の額にも印が押されることはない。印を受ける者は神のみ前に汚れのない候補者でなければならない。わが兄弟姉妹よ、前進しなさい。わたしはただこの時点では、手短に準備の必要性にあなたがたの注意を向けることだけである。今の時期は恐ろしく、驚くべき時であるということを理解し、自分でみ言葉を探求するようにしなさい。」―教会への証216ページ

 「生ける神の印は、品性がキリストに似ている者にのみ押されるのである。」―R&H1895年5月21日

 「神の御座の前に汚れなく立つ14万4千人を印する時にあたって、彼らは神の民であることを告白する者の過ちを最も深く感じるようになる。」―教会への証3巻266ページ

 「我々は力を尽くして、キリストにある男女の身の丈に到達するために全力を尽くしているだろうか。我々は彼に満ち満ちているもの、我々の前に置かれた目標―キリストの品性の完全―を求めているであろうか。主の民がこの目標に到達するとき、彼らはその魂に印されるのである。」―R&H1902年6月10日

 「生ける神の印」が完全な品性の所有者にだけ押されるということは、とても厳粛で驚くべきことである。現代の真理である印する使命は神の御座の前に汚れなく立つ「14万4千人」の決心がどんなものであるべきかを教えている。再臨信徒たちは「生ける神の印」を額に受けることになる。言い換えるのなら、安息日を守る民は、「14万4千人」の群の候補者たちである。なぜなら「生ける神の印」である安息日、いわゆる神の御品性である律法を守り、イエスの信仰によって救いを得る者たちだからである。1844年にこの地に降りてきた「第三天使」は麦と毒麦を区別し、印を押しているのである。

 「次に、わたしは、第三天使を見た。わたしと一緒にいた天使は言った。『彼の任務は、恐るべき任務である。彼は、麦を天の倉に入れるために、麦を毒麦からよりわけて印をおし、たばねる。われわれは、こうしたことに全身全霊をかたむけ、すべての注意を向けなければならない。』」―初代文集221ページ

 14万4千人の特権については、これから研究するが、14万4千人の候補者になるということは、実に喜ぶべきことである。しかし「14万4千人の群に入らなかったなら、多くの群に入ればよい」という安易な考えを持った人が多いのも事実である。14万4千人に入るという考えが傲慢であり、自分の信仰を誇っていると考える人もいる。残念なことは、「多くの群に入ることで満足する」というのが、謙遜な考えであると勘違いしている人がいることである。今日サタンは印する使命に関する誤解と偏見を持つように働いている。それはまるで、「一流大学に入れなくても、二流大学に入れるならばそれで満足である」というような考えを持つのに似ている。サタンは救いにもレベルがあるかのように誤解を与えている。しかし、14万4千人の救いと多くの群の救いは違うものではない。キリストの十字架の功績を信仰によってつかみ、その信仰によって、神の律法に完全に服従する者が救いを得るのである。

 「とこしえの命を受ける条件は、私どもの祖先が罪に陥る前すなわちパラダイスにいたときと全く同じであって、それは、神のおきてに完全に服従すること、つまり完全に義であることであります。もしとこしえの命がこの条件以下で与えられるものであるとすれば、全宇宙の幸福は危険にさらされ、罪の道が開けてあらゆる災いと悲惨とが永久に絶えないことでありましょう。」―キリストへの道81ページ

 「14万4千人」と「多くの群」の違いは与えられた光の量と、時代である。タラントのたとえ話のように2タラントを与えられた者に10タラントは要求されないし、5タラントを与えられたものが5タラントだけを返すのなら、ほめられることはないのである。日曜教会の信徒たちが救われたとしても、彼らも罪の解決や服従なしで、安易に救われるわけではない。彼らも私達と同じように、キリストを信じ、与えられたみ言葉に完全に服従することによって救われるのである。ただ彼らは神の聖なる4番目の律法を知らずにいたので、守らなかったのである。第三天使の使命を受け入れた再臨信徒たちはどうであろう。彼らには完全な光が与えられたのである。

 第三天使の使命を与えられた民には、しみも汚れもない完全な真理が与えられたので、しみも汚れもない完全な品性が要求される。

 「しかし、第三の天使は、彼らを至聖所に導いた。そして、過去のメッセージの経験を経た人々も、彼らを天の聖所へと指さしていた。多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所に入ったのである。わたしは、これらのメッセージが、神の民の錨いかりであることを示された。それらを理解して信じた人々は、サタンの多くの欺瞞に押し流されないように守られるのである。」―初代文集417ページ

 第三天使の使命は完全な真理であるにもかかわらず、この真理を受け入れても、品性に汚れが残っている者と、完全な光が与えられなかったために、品性に汚れが残っている日曜教会の信徒たちの神の裁きは同じではない。与えられた光によって裁かれるのである。1844年以後、神は第三天使を通して完全な真理を公表されたのである。この使命を受け入れた一つの民に、生ける神の印を押すのが「救いの計画」である。この群の数が14万4千人である。完全な真理である第三天使の使命を受け入れた者が14万4千人の群に入らなかったなら、それは救われなかったという意味である。救われるのなら、必ず14万4千人の特権を得るのである。幻の中で第三天使が力強い天使として示されたように、「生ける神の印の使命」は力強い信仰として魂に示されなければならない。そのようになる時、教会は「冷たいか熱いか」になる。 「主は次のようなことをわたしにお示しになりました。折にかなった糧である現代の印の真理が欠乏しているために尊い魂が餓え、死にかけています。だから使命者は出て行って,かの群に、現代の真理である糧を与えなければなりません。私はある天使が次のように言うのを聞きました。『使命者たちよ、急ぎなさい。使命を負っている者は急ぎなさい。すべての魂の運命は生か死のいずれかに間もなく決定されようとしています。』」―現代の真理1巻no3,p3



傷のない者



 「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」―黙示録14:1〜5

 罪の体をもつ人間に、汚れもしみもない生涯を要求する主の遠大な「救いの科学」は天使も伺い知りたいと願う神秘的なものである。これを罪人が簡単に理解できるであろうか?しかし主は「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と命じられたので、信じる者にはそれが可能であるということを、信じなければならない。「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信・・・」することである(ヘブル11:1)。
 
 証拠を見た後で信じるなら、それは聖書が教えている信仰ではない。たとえば、地面の中にいる醜い幼虫が、夏にセミになることは信じがたいことである。しかし、それは事実である。ただ幼虫とセミの姿が全く違うので、初めてそれを聞く人は信じられないのである。しかし、幼虫を見て、セミを見るのが信仰である。この事実を信じることができない人が、幼虫をびんの中に入れ、セミに変わるのを見てから信じようとしたら、それは信仰ではない。セミを見て、セミだと信じるのなら、それは信じることではない。目に見えることを確認しているだけである。信仰というのは、まだ見ることができないのに、信じることであり、これこそが真の信仰である。

 「多くの人々は、彼らの特権であり義務である信仰を働かせることをせず、信仰だけがもたらし得る感情を待っていることがよくある。感情は信仰ではない。この2つのものは全く別のものである。信仰は、われわれが働かせるものであるが、喜ばしい感情と祝福は、神がお与えになるものである。神の恵みは、生きた信仰という通路を経て、魂に達する。そして、われわれは、その信仰を働かせることができるのである。真の信仰は、約束された祝福が、実現し、それを感じることができる前に、それをつかんで自分のものとする。われわれは信仰をもって、第2の幕の中に、われわれの願いをささげ、信仰によって、約束された祝福をつかみ、それを自分たちのものとして主張しなければならない。それから、われわれは、祝福を受けることを信じなければならない。なぜならば、信仰が祝福をつかんでいるのであって、み言葉にあるとおりに、それはわれわれのものだからである。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ 11:2 4 )。 ここに、われわれが祝福を受けたと感じる前に、受けることを信じる信仰、すなわち、真の信仰がある。約束された祝福が実現して、それが自分のものとなった時に、信仰はそれにつつまれてしまう。しかし、多くの人々は、聖霊を豊かに受けている時に、大きな信仰を持っていて、聖霊の力を感じるのでなければ信仰を持つことができないと考えている。このような人々は、信仰と信仰によって与えられる祝福とを混同している。われわれが聖霊に欠けていることを感じる時こそ、信仰を働かせるべき時である。厚い黒雲が心を閉ざすように思われるその時に、生きた信仰によって、暗黒をつらぬき、雲を散らさなければならない。真の信仰は、神のみ言葉の中に含まれた約束に基づいていて、そのみ言葉に従う者だけが、その輝かしい約束を自分のものにすることができる。」―初代文集150〜152ページ

 罪に満ちた自分の姿を見、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)というみ言を信じ、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、」生きるのが真の信仰の生涯である。

 「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」へブル9:12〜14

 「そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。」ヘブル6:17,18

 神のみ約束とイエス・キリストの贖罪の血が私達の良心を清めないであろうか。キリストには私達の生涯を罪のない生涯とされる力がないのであろうか。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:3)。話されればその通りに成就される、偽ることのできないキリストのみ言葉は、完全な品性を得る望みを持つ私達にとって大きな望みである。私達の信仰は自分では不可能なことのために活用されるべきである。神の御約束の中には創造の力があるのだから、そのみ言葉通りに成就するのである。真の信仰は確信であり、目で確認したよりも、もっと確実な証拠となる。「完全になりなさい」という神のご命令は私達の負担となるのではなく、祝福となる。あなたはこの信仰を所有したいであろうか。14万4千人こそがこの信仰を持つようになるのである。



御約束―御言葉



 「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。」コリント第二の手紙1:20

 「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」ピリピ人への手紙1:6

 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」ピリピ人への手紙2:13

 「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」ピリピ人への手紙3:21

 「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ人への手紙4:13

 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」テサロニケ第一の手紙5:23

 「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」ペテロ第一の手紙5:10

 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」ローマ人への手紙1:16,17

 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」ローマ人への手紙6:14

 「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」ローマ人への手紙8:37

 「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。」ヨハネ第一の手紙5:18

 「キリストを信じる信仰を通して神のすべての戒めに従う者だけが、罪を犯す前のアダムが生きた、罪のない状態に到達するであろう。彼らはキリストを愛する自分たちの愛を、彼のすべての教えに従うことによって証するのである。」―原稿122,1901年

 「『この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない』とイエスは言われた(ヨハネ 14:3 0 )。イエスの中にはサタンの詭弁(きべん)に応ずるものは何もなかった。イエスは罪に同意されなかった。1つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエス聖霊の内住によって戦いに備えられた。しかもイエスはわれわれを神のご性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。神はわれわれが品性の完全に到達できるように、われらの中にある信仰の手を求め、それをみちびいてキリストの神性をしっかり把握(はあく)させてくださるのである。」―各時代の希望上巻135ページ

 「『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である』(黙示録3:21)。私達は勝利することができる。全く、十分に勝利を得ることができる。イエスは私達のために逃れの道を作るために死なれた。すなわち、私達がすべての悪い性質、すべての罪、すべての誘惑に勝利し、ついにはキリストと共に座に着くためである。

 信仰と救いを所有するのが私達の特権である。神の御力は減少しない。私は神の御力が過去と同じように、際限なく与えられるのを見た。」―教会への証1巻144ページ

 「サタンは、神の子の中に、彼に勝利を得させるなんのすきも見つけることができなかった。神のみ子は、天父の戒めを守られた。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかった。これが、悩みの時を耐えぬく人々のうちになければならない状態なのである。」―各時代の大争闘下巻397ページ

 「口ではキリストを救い主として信じると言いながら、キリストが彼らに罪に打ち勝つ力をお与えになることを信じない。彼らは、生きた救い主と個人的接触がなく、彼らの品性は、先天的、および後天的欠陥を示している。」―キリストの実物教訓25ページ

 「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」黙示録14:4、5

 14万4千人はこれらのみ言葉を「アァメン」と言い、受け入れる信仰をもっていなければならない。1844年、日の出る所から「生ける神の印」をもってきた第三天使は、14万4千人に印をつけ、贖罪の初穂として収穫され、天の倉庫に入れなければならない。まだ天使たちは風を引き止め、14万4千人が印されるまで待っている。しかしその数が満ちる時が来る。

 「墨入れを持った一人の天使が、地上から帰ってきて、自分の働きの終わったことを報告した。そこで聖徒の数がかぞえられて封印された。すると、それまで十戒の納められている箱の前で奉仕しておられたイエスが、香炉を投げ捨てられるのをわたしは見た。彼は両手をあげて、大きな声で、『事は、すでに、成った』と言われた。イエスが『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』と厳粛に宣告されると、天使の万軍は冠をぬいだ。」―初代文集452ページ

 再臨信徒たちよ、「14万4千人」に入るように、信仰をもって、最善を尽くそう!

 天国は勝ち取るべきものである!                                              ・・・2章に続く。

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