ダニエル書講解 1

序文

 聖書六十六巻の中、ダニエル書とヨハネ黙示録書は特に注意して研究を要する二大預言書である。しかしこの両書を不可解また即断して研究を怠るのなら、それははなはだしい霊的な損失と言わねばならない。もちろん聖書的なキリスト教の基礎、贖罪の中心は十字架である。この問題に対して明快な知識と信仰とを所持していることは肝要なことである。けれども神が人類の歴史を支配しておられる以上、その歴史を通じて神の救済の大事業が完結されるかという事を、われわれ各自が熟知していることもまた、必要なことではないであろうか。それには是非二台預言書であるダニエル書とヨハネ黙示録とに精通しなくてはならない。世間には、聖書は尊く権威ある書物であると力説していながら、この二大預言書について全く誤った解釈を下しているものが少なくないが、おかしな話である。
 現代のキリスト者のみならず、一般の人々も、預言に対する態度は概して冷淡である。極端な人は人々を惑わすものとして、全く無視する人もいる。所詮占いをするような怪しい預言に対してはそれでも良かろう。けれども約2500年間にわたる世界人類の歴史が、ダニエル書、ヨハネ黙示録両書の預言のように成就したことが明らかに証されているからには、これだけはどうしても拒否することはできないのである。
 ダニエル書、黙示録書の両書は決して不可解な書ではない。誰でも熱心に真理を渇望する精神と祈りを持って研究するのならば理解しえるのである。イエスはダニエル書について「読者よ、悟れ」(マタイ24:15)と言われ、万有引力発見者として有名なアイザック・ニュートンも聖書の預言研究を大切なものとして力説した。
 ダニエル書は紀元前560年頃から世界歴史の終末に至るまでの、神聖なドラマ的脚本である。そしてこの脚本の大部分は歴史となって実現した。残るわずかの未来歴史が我々の目前に展開することは疑う余地はない。
 聖書は我々各自に「預言を軽んじてはならない」(第一テサロニケ5:20)と警告している。また聖書の「預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実」(第二ペテロ1:19)であって、暗きを輝かす「燈火」(詩篇119:105)である。苦闘、苦難の渦中に陥っている人類を救済するものは、人間的な画策ではなく、神の計画を究めてそれに全的な信頼を置くことである。この注解書がクリスチャンだけに限らず、あらゆる階級の人々に愛読され、さらにキリストの贖罪を信受し、永遠の幸福を受けられることが編者の真心からの祈りである。
 終りに本書を編するにあたって、大部分はユライヤ・スミス著「ダニエル書講義」に負うものであること、尚エイチ・オー・スワトウト著「亜西偉人軼事」、他二、三の著書を参考としている事を付記し、それらの著者に対して心からの謝意を表す次第である。

大正15年初夏 編者


緒言


 ダニエルの生誕は神武天皇即位後約40年で、中国の孔子がその働きを始める約70年前、またインドの釈迦に先立つことおよそ半世紀であったことは、実に面白い対照ではないか。
 本書に紹介する歴史の理解のために、先ずその当時の世界における主な国々の概況を述べれば、次のようになる。その当時西方アジアに覇をなしていた国は、アッシリア、バビロン及びペルシャであって、ペルシャはメデアと同盟したことがあるために、その国はメド・ペルシャと呼ばれていた事もあった。またその当時比較的独立していたのは、地中海を国境とし、アジアの最も西部を領していた12の部族であるイスラエルの国であったが、そのイスラエルの国は第三代の王の死後二ヶ国に分裂した。すなわち十部族はこれまで通りイスラエルの国と称し、サマリヤを首府として北部を領しており、もう一つはユダとベニヤミンの部族であり、ユダ王国と称し、エルサレムを首府としてその地方を領していた。


捕虜の虐待


 西部アジア諸国における間断なき戦争は実に惨憺たるものであった。殊に他の23ヶ国を併合した戦勝国の主権者は、実に傍若無人に振舞ったものである。すなわち彼等は戦敗国民が再び立つことができないように、しばしば男子は殺し、あるいは不具者とし、女子は奴隷とし使役した。また時としては戦敗国民の大多数を戦勝国の領地内に移住させ、新しい領土に移住する自国民の使役のために、極めて少数の貧しい奴隷のみをそこに残したこともあった。また主権者のある者は自国民すら信頼せず、捕虜の中からもっとも賢明な数名の青年を選び、王に仕える官吏として養成するようなこともあった。おそらくそれは捕虜の身である彼らには同僚も少なく、王に反逆する者にくみするようなことはないであろうという考察からであった。また大君主の下に属国となっていた小君主は常に警戒され、万一謀反をおこすようなことがあれば、厳罰に処せられたものである。
 このような環境の下に、また神武天皇即位紀元より約100年前に、アッシリア王はイスラエルの王を攻めて、サマリヤを包囲攻撃した。この時イスラエル人は頑強に抵抗したためサマリヤの陥落は遅延したが、これに立腹したアッシリア王はついにサマリヤを陥落した時にイスラエル民族の大部分を捕虜としてアッシリア全土に離散させた。そうして彼らの後裔は世界各国に残存しているが、再び故国へは帰らなかったのである。であるから彼らはその時からイスラエルの失われた10部族として知られている。しかし少数のイスラエル人は故国に留まり、そこに移住した粗暴なアッシリア人と雑婚し、いわゆるサマリヤ人と称する混血人種が出来たのである。
 サマリヤの陥落後およそ100年あまりにしてバビロン王ネブカデネザルはアッシリアを征服し、その勢いに乗じてユダを攻めエルサレムを陥れた。これがすなわちダニエル書1章に記された大事件であり、本書の第1章にはその事件が詳論してある。ここにユダより荘厳にして華麗なる偶像教の都バビロンに捕虜となった青年ダニエルが紹介されているのである。母国において真の宗教の聖なる教えを受け、健全なる環境の内に成長した真摯にして汚されることのない青年ダニエルには、万事が実に珍しかったに違いない。


離散したユダヤ


 サマリヤよりアッシリアに捕虜となったイスラエル人は、再び故国に帰らなかった。であるからバビロンに捕虜になったユダヤ人の子孫は、それから70年後に希望する者はエルサレムに帰ることを許された。この自由を与えた最初の勅令はペルシャ王クロスのもので、彼がバビロンを征服したのちに、発布したのである。最初は極少数の者がエルサレムに帰ったのみであるが、前後3回にわたって彼らの帰還を奨励する勅令が出たために、ユダヤ人の大多数はバビロンを去ってエルサレムに帰還した。しかし尚多くのユダヤ人はバビロンの生活に慣れ、長旅をして全滅したエルサレムを再建する困難な働きをなすよりも、むしろバビロンに留まる方が良いという者もあった。そうしてユダヤ人の大多数がエルサレムに帰還した時、ダニエルもまた彼らと共に帰還することを希望したであろうが、彼はすでにその時ほとんど90歳の高齢であった。それよりおよそ100年後にはユダヤ人はペルシャ帝国でも有力にして裕福な民族であった事は、歴史の証明するところである。すなわち彼らのある者はペルシャ帝国の主要なる官吏となりユダヤ人の一婦人は、ペルシャ皇帝中最も繁栄を極めたクセルクセス王の后となった。


領土なき民族


 エルサレムに帰ったユダヤ人は神殿と都市を再建した。しかしユダヤ人はこの後も大抵強国の下に属国としてほぼ500年間存続した。キリストの在世当時まではユダヤ人は神の選民であったが、彼らは肉によれば同じユダヤ人であったキリストを拒否し、彼を十字架につけて以来、真の宗教すなわち真のキリスト教とその恩恵より自らを遮断してしまった。しかしユダヤ人といえども個人的には悔い改めとキリストを信じることによって他の人々が救われるのと同じように救われるのである。その後紀元70年ローマの権威に反逆したために再び都市も神殿も滅ぼされ、ユダヤ人は殺され、離散させられた。その時の包囲攻撃によって生命を失った者は、実に百万を越えていたということである。以来今日にいたるまで都市も神殿も共に再建の運びに至らず、かつユダヤ人は、一定の領土をさしてこれがわが国であるということのできない哀れな亡国の民となってしまったのである。(この文章が書かれた当時イスラエル国家は再建されていなかった。)しかし、不思議なことにはユダヤ人は地球上いたるところに離散しているにもかかわらず、何れの国民とも同化することなく、どこに行ってもその特徴を発揮している。たとえば約二千年前中国に移住したユダヤ人もそうである。その後裔は中国の数箇所に離散しているが、今なお同国人の特色を備えている。特に河南省開封ユダヤ人はその著しい例である。
 ユダヤ人の多数は商人であるが、その中には世界的な富豪が沢山いる。またユダヤ人の中には政府の要職についている者もいる。同国人中の富豪名士の名高い者の一部を列挙すれば、ヨーロッパの銀行王ロス・チャイルド、長年英国の首相であったベンジャミン・ディズレーリ、世界最大の通信販売会社重役ローゼンウォルド、日本においても数回講演した洋琴の大家ハイフエズ、相対性理論で名高いアインシュタイン、フランスの哲学者ベルグソン、ロシアのトロツキー等である。この他ユダヤ人中には非常に多数の富豪がいるために、ある人々の間では「ユダヤ人が財力をもって世界を支配する」のではないかと心配している者さえいるほどである。勿論このような発言はとるにならない杞憂に過ぎないが、いかに彼等が各方面において成功しているかを証するものである。
 以上をもってユダヤ国と同国民の歴史的な大略を終え、これよりさらに進んで同国人の一人であるダニエルの著したダニエル書の詳細な研究に入ることにする。

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