確実な預言と女の残りの子ら 第1章「信仰による義」

第一章「信仰による義」



 罪人にとって最高の祝福は信仰によって義とされ、救いを得ることである。初めアダムは罪を犯した時、死ななければならなかったが、一匹の羊が葬られることによって、救いを得ることができた。今日に至るまで、全人類は世の罪を贖うキリストによって義を得、救いを受けることができる。この福音は終わりの時により完全に、また、より明るい光として罪人に与えられている。1844年、「第三天使の使命」によって与えられた「信仰による義」の真理は、永遠の福音として世に現された。そして1888年には、より具体的でより美しい真理、力をもった福音として神の教会に示されたのである。

 「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。」黙示録18:1

 「信仰によって義とされるという使命が第三天使の使命であるかという質問の手紙が数人から来たが、それに対し私は『それこそ真の第三天使の使命である』と答えている。」―R&H1890年4月1日(セレクテッド・メッセージ1巻372)

 「テストの時が今や来ている。第三天使の大いなる叫びは、すでに罪をゆるしたもうあがない主、『キリストの義』が示されたことによって、すでに始まった。これこそ全地を栄光で満たす、天使の光のはじまりである。」―R&H1892年11月22日(セレクテッド・メッセージ1巻363)

 「第三天使の使命」と1888年に与えられた「信仰による義の使命」は同じである。「キリストの義が示されたことによって第三天使の大いなる叫びがすでに始まった」という証からもわかるように、私たちが信仰によって求めなければならない最高の目標は、キリストの義(品性)である。キリストの義とは何か。それは罪ある肉体を取りながら、思いにおいても罪を犯さず、完全な品性を形成された「キリストのご品性」である。であるから第三天使が宣言するキリストの義の使命は、私たちもキリストのようなご品性を持つことが可能であり、罪を犯さない生活ができるというものである。これは「大いなる叫び」によって伝えられなければならない。なぜなら神の裁きが間もなく終わるからである。信仰によって完全な生涯が可能であるという証、またメッセージが伝えられずに、完全な神の律法による裁きが可能であろうか。この目的のために黙示録18章の天使は1888年から彼の働きを始めたのである。

 「主はその大いなるあわれみをもって、きわめて尊い使命をその民に与えられた・・・・。この使命は、罪の犠牲であられる、高められた救い主を全世界にもっとはっきり紹介するためであった。それは保証人であられるキリストを信じる信仰を通して義を提示し、神のあらゆる律法に対する服従の中に明示されているキリストの義を受け入れるように人々に勧めた。多くの者はイエスを見失っていた。彼らは、主イエス尊い御品性と、その功績と、人類家族に対する変わりない愛に目を向けねばならなかった。・・・これこそ第三天使の使命であって、声高らかに宣べ伝えられるはずのものであり、豊かな聖霊の降下を伴うはずのものである。」―牧師への証p91,92

 主は1888年に最も大切なメッセージを最後の教会に与えてくださった。このメッセージによって次の様な内容が示された。

 1.全世界の罪のための犠牲となられたキリスト。
 2.信仰による義認。
 3.キリストの義を受け入れるようにとの招待。
 4.このメッセージを世に伝えるようにとの命令。
 5.第三天使のメッセージと同じ。
 6.大いなる聖霊の降下の約束。

 二人の使命者を通して与えられたメッセージは、犠牲となられたキリストを個人的救い主として受け入れることによって義とされ、キリストを見続けることによって、彼の完全な品性を得るようにという招きである。この福音は全世界に伝えられなければならないメッセージである。このメッセージは真の第三天使のメッセージであり、後の雨が約束されているものである。このような重要なメッセージを1888年、SDA教会に与えられたのである。このメッセージは新しいものではなく、第三天使のメッセージを受け入れたと公言する人々が見失ったものである。これこそ「信仰による義」のメッセージである。

 「信仰によって義とされるという教理は、第三天使の使命を信じると告白している多くの者によって見失われている。」―R&H1889年8月13日

 「われわれの現在と永遠の福音であり、真に大切な主題(信仰によって義とされる)に関する聖書の真理を自分で理解している者は百人に一人すらいないのである。」―R&H1889年9月3日

 今日信仰による義のメッセージは混乱している。悔い改めの経験のない神学者、牧師、指導者たちによって、真理は理論的、形式的になり、敬虔と力のない福音が溢れている。「キリストの義」、「キリストの完全な品性」によって魂を招かない福音はすべて偽である。第三天使の使命を信じていると公言する魂たちが、今は福音を見失っている。もちろん個人的に研究する人々もいるが、正しく理解する者は百人のうち一人もいないのである。

 「なぜ私たちの口はキリストの義と世界に対する主の愛という主題について、このように沈黙しているのであろうか。」―セレクテッド・メッセージ、3巻p184

 「幸福は、神のみ心に一致し、聖である結果である。天で聖徒となるためには、まず地上で聖徒となっていなければならない。なぜなら、私たちが地上を離れる時、私たちはその品性を持って行くからである。それは、ただキリストの義を通して私たちに与えられた天の要素の中のあるものを持っていくのである。」―R&H1890年8月19日(セレクテッド・メッセージ、3巻p191)

 「今は神のみ言を聞くことだけではなく、滞りなくランプと油を確保するように魂たちに懇願すべき時である。この油はキリストの義である。これは品性を代表している。この品性は他人に譲ることはできない。だれも他の人のために品性を獲得できない。」―牧師への証p233

 今日教会は「キリストの完全な義」にたいする主題に対して、異常なほどに沈黙している。今は滞りなく油を確保するように、魂に懇願すべき時ではないだろうか。「キリストの義」、「キリストの完全な品性」によって魂を招かないキリストの義の教えは、裁きの日に魂の裸の恥をさらすようになる。

 「すべての人に試練がやってくる時は、あまり遠くない。・・・真の敬神深さが、ただうわべだけの見せかけからはっきりと区別される。われわれが輝かしさを賛美した多くの星が、その時暗黒の中に消えていく。聖所の飾りのようなふうをしてはいたが、キリストの義をまとっていなかった人々は、その時裸の恥をさらす。」―国と指導者上巻p156

 一人ひとりに最後のテストが待っている。その時、うわべだけの敬神深さが真のものと区別される。キリストの義をただ飾りのようにもっていた魂は、その日、恥をさらすようになる。ラオデキヤ教会の真の証人の勧告は、キリストの義をただの装身具としてではなく、私たちの品性として着るように招待している。

 「ラオデキヤの使命は伝えられてきた。この使命のあらゆる局面を携えて行き、摂理の中に道が開かれる所ではどこでも、それをことごとく人々に伝えなさい。信仰による義認とキリストの義は、滅び行く世界に提示されなければならない主題である。」―手紙24,1892年(スタデイー・バイブル、黙示録3:15〜21参考)

 キリストの義、キリストの完全な品性によって魂を招待せずに義を教える者は罪の側で働き、サタンを喜ばせる。

 「キリストの敵は沢山いる。彼らは義なる者だと主張するが、キリストの義を持っているのではない。彼らは光の天使のように偽装しているが、罪の奉仕者である。」―牧師への証p236

 「わたしたちがキリストの義を受けるということは、私たちの功績ではなく、神から与えられる賜物であるという思いは、どれほど素晴らしいものであろう。神と人の敵サタンは、人がこの真理を十分に受け入れるなら、自分が無力になることを知っているので、この真理が明らかにされるのを嫌う。」―福音伝道p161

 「キリストの義」、すなわち「キリストの完全な品性」によって魂を招かなければ、律法を高めることも、安息日を聖とすることも不可能である。

 「イエス・キリストの義をつかまない限り、エホバの律法を高めることは、我々には不可能である。」―原稿 5,1889年(スタデイ−・バイブル、ローマ3:31参考)

 「ユダヤ人に与えられた制度の中で彼らを周囲の国民から区別するのに安息日ほど役立ったものはなかった。神は、安息日を守ることが神の礼拝者である証拠となるように計画された。それは、彼らが偶像礼拝から離れ、真の神とつながっていることの証拠となるのであった。しかし安息日を聖とするためには、人は自ら聖でなければならない。信仰によって彼らはキリストの義にあずかる者とならねばならない。『安息日を覚えて、これを聖とせよ』との命令がイスラエルに与えられたとき、主はまた彼らに、「あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない」と言われた(出エジプト記2:8、22:31)。このようにしてのみ、安息日は、イスラエルを神の礼拝者として区別することができた。」―各時代の希望上巻p364

 「キリストの義」、「キリストの完全な品性」によって魂を招かなければ罪の除去は行われない。天のみ父の御前に行きたいものは、必ず「キリストの義」を私たちの信任状として持っていかなければならない。

 「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。」―各時代の大争闘下巻p215

 「律法の要求に答えるためには、キリストの義をつかみ、自分の義として受け入れなければならない。キリストと一致することを通して、信仰によってキリストの義を受け入れることによって、私たちは神の働きを行う資格と、キリストとの同労者となる資格を得るようになる。・・・

 もし私たちが天の父のもとに行く通路を見つけたいのなら、キリストの義を私たちの信任状として持って行かなければならない。われらの義キリストを得るためには、日ごとに聖霊の感化によって変化されなければならないし、聖なる品性にあずかる必要がある。」―セレクテッド・メッセージ1巻p374

 預言者は第三天使を信じていると公言している人々が、「信仰による義」のメッセージを忘れてしまったと言っている。現代は救いにいたる真理を聞くのが困難な時代である。生命のある真理を見つけるのが難しい時代である。主はこのような最後の時を見て、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(ルカ18:8)と言われた。 



様々な見解




 マルティン・ルターを初めとして、16世紀の宗教改革者たちが理解し、教えた「信仰による義」と第三天使の「信仰による義」の真理は同じものなのだろうか。もし同じだとしたら、第三天使のメッセージは16世紀から伝えられてきたということになる。この点において人々は混乱している。もちろんメッセージが全く違うとは言えないが、明らかに異なった点がある。信仰による義のメッセージは天の聖所で奉仕されているキリストの仲保の働きと調和するべきである。 

 今日信仰による義のメッセージが混乱している理由は、信仰による義のメッセージと天の聖所で奉仕されているキリストの仲保の働きを調和させるのに失敗しているからである。聖所は庭と聖所(初めの部屋)と至聖所(二番目の部屋)に区別されている。キリストが聖所のどこで奉仕されているかを知ることによって、信仰による義のメッセージが完全に教会に表されるのである。中世の宗教改革者たちは、第三天使のメッセージ、特に天の聖所に対する真理を理解できなかったのである。16世紀のマルティン・ルターの「信仰による義」の中心的な教理は「聖所の庭」の真理である。罪人の命を贖うために死んだ神の小羊キリストの犠牲による義認の真理が彼らの理解した光である。18世紀のジョン・ウェスレーの教えた「信仰による義」の中心的な教理は、16世紀の宗教改革者たちが教えた義認の教理の上に、聖所の初めの部屋が指し示す聖化の真理を加えた。19世紀になって、至聖所の真理が過去のすべての改革者たちによって現された真理と一致されて、「信仰による義の真理」として教会に完全に現された。「信仰による義の真理」は天の聖所の真理と一つにならなければならない。第三天使が示している天の至聖所と調和して教えられなければならない。今日、教えられている信仰による義のメッセージは三つの見解によって要約できる。



1.一般的な見解




 義認―罪人がキリストを信じることによって、過去の罪の完全な許しを受ける。キリストの功績は十字架にあると信じる。悔い改めと告白によってキリストを個人的救い主として受け入れる時、生まれ変わったと信じる。これを「義認」という。これはキリストの贖いによる救いを信仰によって得る瞬間的な経験であり、天国に入る唯一の資格である。

 聖化―「義を受けた魂が聖なる生涯、律法に対する義務を持ち、天にふさわしい者となるために準備すること」であると信じる。律法に対する服従の動機は、救いを与えてくださったキリストに対する愛によって自発的な服従になるべきである。

 完全―聖化は一生の経験である。しかし律法に服従する生涯で失敗もある。このような罪は悔い改めと告白によって許され、最善を尽くした後、足りないところは、キリストが満たしてくださる。

 このような見解は再臨信徒のほとんどが信じている伝統的な解釈である。理論的には健全であるし、現実的には合理的にみえる。しかし、聖化の過程で失敗の生活を続け、足りないところをキリストが満たしてくださって、完全に至るという考えは、天の聖所の真理とは調和していない。なぜなら、第三天使のメッセージは天の聖所の至聖所を示しているし、そこには、大祭司としておられるキリストが仲保の働きをされているからである。人はすべてのことにおいて、至聖所のキリストに会わなければならないのである。




2.新神学的な見解




 義認―キリストの贖いを信じる罪人が義を受けて救いに至る。義認は過去のすべての罪の許しだけではなく、将来犯すかもしれないすべての罪を許し、完全な義を宣告されることである。義認というのは、キリストの功績を全く信じる者に与えられる神の合法的な宣告であるから、救いは、聖化や完全、信徒の経験とは関係がない。

 聖化―クリスチャンは清い生活をし、律法に服従しなければならないが、それはクリスチャンの自発的な業に過ぎず、救いとは関係がない。

 完全―聖化の生涯は救いの条件ではなく、救われた人々の生活に表れる結果と実である。生まれ変わった魂もまだ罪の本性を持っているので、罪の完全な自由を経験できない。なぜなら律法は私たちの行為だけでなく、思いにおける罪をも指摘し、罪を犯す可能性までも指摘するからである。であるから、救いは義認だけで得る。信仰によって義を受けるのであるから、聖化や完全は救いとは関係ないので、心配する必要はない。

 このような新神学的な見解は、SDAの伝統的解釈から始まった律法主義的な概念からの自由を与えてくれた。ここには今までSDAでは経験できなかった救いの喜びがあった。しかし、これは放縦の道を開いた。この見解は日曜教会で教えている「一度救われるのなら、永遠に救われる」という教えと同じものである。SDAは16世紀の「信仰による義認」の経験を忘れ、福音は単なる理論となり、形式化し、律法主義となった。その結果、教会はラオデキヤ状態になった。この「新神学」がラオデキヤ状態になったSDAの欠点を直すようにみえたが、それはかえってサタンの落とし穴に落ちる結果となったにすぎない。天の聖所の真理から目をそらしたために、「16世紀の信仰による義認」と「第三天使のメッセージは真の信仰による義」であるという真理の違いを理解できなかった。キリストの再臨の前、地上にいる魂から罪の生活が終わり完全になるという、聖所真理は見過ごされたのである。その結果SDAの特別な真理に対して無関心になり、律法の標準は下がり、信徒の敬虔さが失われた。




3.第三天使のメッセージと信仰による義認



 1888年、ワゴナーとジョーンズを通して「信仰による義認」のメッセージが与えられた時、ホワイト姉妹は「これこそ真の第三天使のメッセージである」と話した。

 「信仰によって義とされるという使命が第三天使の使命であるかという質問の手紙が数人から来たが、それに対し私は『これこそ真の第三天使の使命である』と答えている。」―R&H,April 1,1890/ 1SM p372

 16世紀の改革者たちから伝えられた信仰よる義のメッセージと、第三天使のメッセージに含まれている信仰による義のメッセージの違いは明白である。もし同じなら、第三天使のメッセージが16世紀から伝えられるべきであった。1844年10月22日以後から伝えられた第三天使のメッセージとの相違点は、天の至聖所の真理と信仰による福音が一致しているかどうかであった。不法の働きによって踏みつけられた福音は、16世紀の宗教改革マルティン・ルターによって始まった。これは、「信仰による義人は生きる」というメッセージであり、聖所の庭にある祭壇のメッセージである。それ以後の宗教改革者たちのメッセージは、義認されたものが清められた生活をしなければならないという聖化の真理であった。

 福音と神の律法がどのように調和しているかが理解され、清められた生活は義認を受けたものから表れなければならない実であることを理解するようになった。

 「ウェスレーは、律法と福音の完全な一致について、次のように言っている。・・・たとえば律法は、神を愛し隣人を愛し、柔和で謙そんで聖潔であるようにと、われわれに要求する。」―各時代の大争闘上巻p334

 「信仰による義」は義認と聖化のメッセージが一致してより明確に表されたものである。この聖化の真理は聖所の初めの部屋から与えられた光である。天の「聖所」から与えられたというメッセージの区別はできても、分離はできないということを覚えていなければならない。義認と聖化を区別して教えた伝統主義的なSDAの教えと、聖化を救いの条件から完全に取り去った新神学は危険な教えである。1888年のメッセンジャーとホワイト姉妹は、義認と聖化を区別はしたが、分離はしなかったのである。

 「多くの者たちが、義認と聖化の細かい相違点を詳細に定義しようとする間違いを犯している。これら二つの言葉の定義中に、彼らはしばしば自分の思いつきと憶測を持ち込む。なぜ信仰による義に関する重要な問いかけを、霊感によるものよりさらに詳しくしようとするのだろう。なぜ、魂の救いがあたかもこの問題について厳密に理解することにかかっているかのように、すべての細かい点を解明しようとするのだろう。すべての人が同じ見方をすることはできないのである。」―MS21,1891/SBローマ3:24〜28

 1888年、使命者を通して主は信仰による義認のメッセージを伝えられた。「主はその大いなるあわれみをもって、ワゴナー長老とジョーンズ長老を通して、きわめて尊い使命をその民に与えられた。・・・それは保証人であられるキリストを信じる信仰をとおしての義を提示し、・・・」―牧師への証p91

 このメッセージは救いの条件に聖化を入れない新神学の教えとは違う。また、義認と聖化をはっきりと区別して教える伝統主義的な教えとも違う。これは、義認とは律法と服従が関係していることを教えた。

 「義認は律法と関係がある。この用語『義認』は義人に造り変えられるという意味である。ローマ2:13は、われわれにだれが義とされたかを教えている。『律法を聞く者が神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が義とされる。』義人とは律法を行う人である。であるから、人を義とし、義人に創り変えるというのは、人を律法を行う者にするということである。

 信仰によって義とされるということは、単純に信仰によって律法を守る者に造りかえられるということなのである。・・・・義を保ち続け、律法を守り続けるには信仰と神への継続した服従が必要である。・・・・『すると信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえってそれによって律法を確立するのである。』(ローマ3:31)つまり、律法を破ることによって、律法が無効であるかのように生活するのではなく、信仰によって私たちの心の中に律法が確立されることなのである。信仰がキリストを心のうちに住まわせ、こうして律法が心に確立するのである。」―ST1893年5月1日

 「主はその大いなるあわれみをもって、ワゴナー長老とジョーンズ長老を通して、きわめて尊い使命をその民に与えられた。・・・この使命は、全世界に罪の犠牲であられる、高められた救い主を世界にもっとはっきりと紹介するためであった。それは保証人であられるキリストを信じる信仰を通しての義を提示し、神のあらゆる律法に対する服従の中に明示されているキリストの義を受け入れるように人々に勧めた。・・・・・これこそ、第三天使の使命であって、声高らかに宣べ伝えられるはずのものであり、豊かに聖霊の降下を伴うはずのものである。」―牧師への証p91,92

 「それだから神はイエスの内にある真理をそのまま提示した証、すなわち明白で確実な第三天使の使命をご自分の僕たちに与えて下さった。」―牧師への証p91

 知っている罪を見過ごしにしながら義認を主張すること、つまり信仰と服従が生活に見えないのに義認されようとすることについて主は勧告された。

 「たとえ神が義であられて、キリストの功績を通して罪人が義とされ得るにしても、知っている罪を捨てず、果たすべき分を果たさないでいる間は、だれもその魂をキリストの義で包むことはできない。神は義とされることを求められる前に、心の徹底的な服従を要求される。人が義とされることを維持するためには、愛をもって働き、魂を清める積極的で生き生きした信仰に基づく継続的な服従が必要である・・・。人間が信仰によって義とされるためには、信仰が心のすべての愛情と衝動を支配する位置にまで到達すべきである。また、信仰そのものが完全になるのは、ただ服従によるのである。」―セレクテッド・メッセージ1巻p366

 このメッセージには、明らかに16世紀の宗教改革者たちが教えた「信仰による義認」とは違う点がある。これは全く新しいメッセージではなく、より明るくなった光である。1888年のメッセージは、16世紀のものに18世紀の聖化のメッセージが加わり、至聖所から与えられた完全な真理が加わったものである。だから第三天使のメッセージが信仰による義のメッセージであると預言者は言ったのである。

 「あなたがたの救いの代価に対して感謝する心を持つとき、あなたがたはイエスを信じると言えるであろう。あなたがたはイエスがあなたがたのためにカルバリーの残酷な十字架上で死なれたことを感じるとき、主の死はあなたがたに罪をやめるようにさせ、キリストの血潮の代価を通してあなたがたに与えられた恵みによって、あなたがたの品性が全うされることを信じる知的思考力を持つ時、あなたがたはイエスを信じているというこができる。」―R&H1888年7月24日

 信仰による義認というのは、知的なものだけではなく経験も含まれている。罪を犯したために人類に与えられた神の愛と救いの計画に対して、感謝する心と経験を持たなければならない。キリストが十字架で苦しみ、死なれたのは、私の罪のためであるという事実を知り、経験しなければならない。その時、真の悔い改めと告白の経験をするようになる。二度と罪を犯さないという決心と律法に対する服従の生活が可能となる。キリストの功績と力は自分の生活から罪をやめさせるという信仰と、神の恵みによって罪ある品性が変わり、完全に到達するという知的思考と信仰を持つことが含まれている。1888年ワゴナーとジョーンズを通して、主が教会に与えてくださった義認の使命は、第三天使のメッセージと天の至聖所から与えられる光が加えられて伝えられた。

 「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」―へブル9:13,14

 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」―第一テサロニケ5:23



聖化




 ある人は聖化を義認と完全に分離することによって信仰による義とは関係がないものと考えている。聖化は義認の後、自分の努力をしなければならないことであると信じている。真の悔い改めの経験なしの理論と知識だけを持っている神学者たちと牧師によって、聖化の真理は間違って教えられている。義認と聖化は区別できるが、分離してはならない。義認の経験の中には聖化の経験が含まれている。信仰と行いは区別できるが、分離できないのと同じである。服従と行いは信仰があるかないかを確認させてくれる試金石である。

 「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。」―ヤコブ2:17,18




聖化は信じる者に働く神の働きと力である




 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」第一テサロニケ5:23

 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」ピリピ2:13

 ではわたしたちの努力と行い、熱意はどこに必要であるかと疑問を持つかもしれない。聖化は神の働きであるし、聖霊の力によって行われるものであるが、信じる者にもすべきことがあるということを理解する必要がある。義認は絶対的な神の恵みとキリストの十字架の功績による私たちの領域外の神の働きである。しかし、生まれ変わった魂は自由人として神に意志を捧げて聖化させてくださる神と協力しなければならない。神は強制的に魂を聖化なさらない。人間に自由の意志を与えてくださったので、信じる者から同意と協力を要求されている。私たちが神の力に同意し、協力しなければならない。神を信頼しつつ服従する生涯である。義認も聖化も信仰によるものであるが、義認は人間のどんなわざや努力も要求していない。ただ創造主であり、神のみ子なる十字架の功績にだけに力がある。しかし聖化は人間の協力と信頼を要求している。これが義認と聖化の異なる点である。




協力−努力と服従




 聖化という神のみ業に自由の意志と選択の力を使うのは、私たちの知恵であり、特権である。

 「・・・ただ必要なのは本当の意志の力とはなんであるかを知る事であります。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力であります。全てはただ意志の正しい行動にかかっているのであります。神は人間に選択の力をお与えになりました。つまり人がそれを用いるようにお与えになったのであります。」―pキリストへの道60

 「救いを得る仕事は協同組合のようなもの、すなわち、共同作業である。神と悔い改めた罪人との間に協力がなければならない。これは品性における正しい原則を形成するのに不可欠である。人は完全を目指すにあたって、妨げとなることを克服するよう、ひたすら努力しなければならない。しかし、これを成功させるために全く神により頼むのである。人間の努力だけでは不十分である。神の力に助けられなければ全く効果がない。神が働かれ、また、人も働くのである。誘惑に抵抗するのは人の仕事であり、そのための力を神からいただくのである。一方には無限の知恵と憐あわれみと力があるが、他方には、弱さ、罪深さ、全くの無力さがある。」―患難から栄光へ下巻p176

 この地上では聖化の生活がとても難しいということを経験する。であるから、勇気と信仰と努力が必要である。

 「キリストを通してすべてが可能であるから、すべての人に根気強い勤勉の精神が吹き込まれなければならない。我々は戦って努力し、苦悩しつつ目覚めて祈るべきである。そうしないのなら、抜け目のない敵に征服されるであろう。なぜなら我々がこのような争闘のために用いることのできる力と恵みは神から来るものであり、毎瞬間、我々はご自分によって神に来るすべてのものをお救いになることができるキリストを信頼しなければならないからである。人間の側ではなすべきことが少ししか、あるいは何もないという印象を決して心に残してはならない。むしろうまく勝利するために人間は神と協力すべきであることを教えなさい。」―セレクテッド・メッセージ1巻p381

 信仰と服従には何の功績もない。なぜならそれら自体には命がないからである。私たちの救いのための神の働きに対して、私たちの同意と協力が必要である。命と力は神にある。これらすべては聖霊を通して与えられる。

 クリスチャンの生涯は目標のない生涯ではない。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)というみ言葉はクリスチャンに目標と標準を示してくれる。私たちは罪のある肉体を持っている。ではどのようにして天におられる父なる神のような完全に到達することができるのだろうか。それは信仰によって救われる魂が永遠に求めなければならない目標である。罪ある肉体を持っている今日の私たちが、私たちの領域で完全になることを要求されている。
 「神が神の領域で完全であられるように、人はその領域で完全になれるのである。クリスチャンの品性の理想はキリストのようになることである。私たちの前には絶え間ない前進の道が開かれている。私たちには到達すべき標準、獲得すべき目的があり、そのすべてのことにおいて、善と純潔、高潔と気高さが含まれている。品性の完成のためには絶えざる努力と、奮闘、前進と向上があるべきである。」―教会への証8巻p64

 栄光の王国に入る人々は完全への絶え間ない努力と信仰が要求されている。終わりの時代の人々は調査審判が終わり、恵みの扉が閉まる前に、このような状態に到達しなければならない。

 「今、われわれの大祭司がわれわれのために贖いをしておられる間に、われわれは、キリストにあって完全になることを求めなければならない。救い主は、その思いにおいてさえ、誘惑の力に屈服されなかった。・・・サタンは、神の子の中に、彼に勝利を得させるなんのすきも見つけることができなかった。神のみ子は、天父の戒めを守られた。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかった。これが、悩みの時を耐えぬく人々のうちになければならない状態なのである。」―各時代の大争闘下巻p397

 キリストは思いにおいてさえ誘惑に屈服されなかった。キリストにはサタンを有利にする罪が全くなかった。この状態が私たちの領域の中で到達すべきものである。この使命が全世界に伝えられなければ終わりは来ない。人間も完全になることができるという使命が伝えられずに、どのようにして神の完全な律法で世を裁くことができるのであろうか。

 「天の神なる主は、警告を与えるために見張り人を送るまでは、違反と不服従のための神の裁きを世になさることはない。・・・キリストの義のメッセージは、主の道を備えるために、地球のこの果てからかの果てまで伝えられなければならない。これが第三天使の働きを終了する神の栄光である」―教会への証6巻p19



聖所の清め




 品性が完全にならなければならないという真理に対して、誤解し、サタンの欺瞞に騙されてはならない。これは第三天使のメッセージと2300の夕と朝によって預言されたものである。ダニエル8:14の「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」というみ言葉は、この真理を知る魂の心に罪が終わり、永遠の義があらわされるという事実を聖所の真理を通して教えている。聖所が汚れるのは、魂の罪によるものである。結果として神の民が罪を犯すのなら、聖所は汚れるのである。

 「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。』」レビ記20:2,3

 「しかし、汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は汚れているからである。」民数記19:20

 聖所の清めは単なる法的な手続きではなく、聖所が清められなければならないという真理を証しているものである。私たちの生涯から罪が終わらなければ、天の聖所は清められないのである。聖所の清めは、聖徒の清めをさしている。聖所が清められるためには、その中で礼拝する聖徒たちが清められなければならないという意味である。

 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。」マラキ3:1〜3

 「キリストは天の聖所を民の罪から清める働きをなさっている。私たちも地上で魂の聖所をその道徳的汚れから清められるように、主と調和して働かなければならない。」―R&H1890年2月11日

 「私たちは大贖罪の日に住んでいる。私たちはご自分の民の罪から聖所を清める働きをなさっているキリストと一致して働かなければならない。」―R&H1890年2月21日

 私たちは天の聖所で働いているキリストと一致した信仰を持たなければならない。福音を一致して教えるべきである。一致した行いがなければならない。キリストは私たちの生涯から罪が終わり、完全になるために働かれるのに、どのようにしたら完全になれるかという不信をもつなら、天の聖所がどのように清められることができるであろうか。

 「だれでも自分の活動範囲内で、クリスチャン品性の完成を目指して、果たせないことはない。いのちと信心とにかかわるすべてのことを信者たちが受けられるように、キリストの犠牲によって準備がなされた。神はわれわれが完全な標準に到達するように求めておられ、キリストのご品性の模範をわれわれに示しておられる。救い主は、悪に抵抗した生活を貫き通して完全なものとされたご自身の人性によって、人間が神と協力すれば、この世において品性の完成に到達できることをお示しになった。これは、われわれも完全な勝利を得ることができるという神からの保証である。」―患難から栄光へ下巻p231

 「聖書全体のあらゆるテーマの中でその一大中心となるべきテーマは、救済の計画すなわち人の魂の中に神のみかたちを回復することである。」―教育p134

 「徹底的な服従が要求されている。完全な生涯が不可能であると言っている人々は、神は不公平で不忠実であると侮辱している。」―原稿p147




罪の除去




 聖所の真理を研究してみると、罪の除去に対する重要な真理を発見することができる。罪が許されるということと、罪の除去はどのように違うのであろうか。許しというのは、罪の刑罰からの免除をさす。除去というのは、罪の刑罰だけでなく、記録まで消し去られることを意味する。聖書では罪の除去を二つの概念で説明している。



一般的概念における除去―罪に対する完全な許し




 「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。」詩篇51:1

 「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。」イザヤ43:25

 聖書に記録された一般的な罪の除去というのは、悔い改めた罪に対する完全な許しを保証することである。これには完全な悔い改めが必要である。




救済の歴史的概念における罪の除去

―天の聖所の実体を信じる再臨信徒が理解すべき真理―




 「救済の歴史的概念における罪の除去」という言葉は、大贖罪の日が1844年から実際始まっているという事実と、調査審判を通して、最終的に天の記録の書から罪の記録が除去され、聖所が清められるという救いの計画を説明する時に使う。しかし、人々は罪の許しと罪の除去の違い、またその実体が何かを理解できないでいる。

罪の除去は・・・・
 ※大贖罪の日に行われる。
 ※聖所の清めと直結した、大祭司キリストの核心的働き。
 ※救いの計画の中で罪を処理する最後の働き。
 ※一つの民が清めと完全に到達する経験が必要。
 ※個人的な生涯における罪の除去(完全な悔い改め)が必要。
 ※大贖罪の日に生きている私たちの運命と直結している働き。



一年一回の大祭司の奉仕



 大贖罪の日は聖所の清めと罪の除去が行われる日である。毎日の奉仕においては入ることができなかった至聖所に大祭司が入り、聖所の清めのために二匹の山羊が選ばれた。

 「アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。」レビ記16:7,8

 ※エホバのために一匹のやぎ。
 ※アザゼルのために一匹のやぎが選ばれる。
 ※エホバのためのやぎが先に民のために殺される。
 ※やぎの血を贖罪所と幕に撒く。

 「また民のための罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入り、その血をかの雄牛の血のように、贖罪所の上と、贖罪所の前に注ぎ、」レビ記16:15

 大贖罪の日に殺される犠牲のやぎの血は、個人の罪の許しのためではなく、以前聖所に移されたイスラエルの民のすべての罪を除去するためであった。ここで重要なことは、毎日の奉仕において聖所は血によって汚されたが、大贖罪の日に殺されるやぎの血は、聖所を清められたということである。




聖所の清めと罪の除去




今日、聖所の清めと罪の除去がどんな結果をもたらすか、またそれらが個人とどんな関係があるかということに対する研究が必要である。

○聖所の概念:地上の聖所(モーセが建てた)―天の聖所の模型。
○天の聖所―地上の聖所の実体として天にある。
○教会(聖所)―天の聖所と繋がっている。
○心(聖霊の宮である聖所)―教会を構成している生まれ変わった魂。

 「地上の神の教会は天の神の教会と一つである。地上の信徒と堕落したことのない天の存在が一つの教会を構成している。天の知的存在者たちは地上で神を礼拝するために集まる信徒の集会に関心をもっている。この地上すなわち外庭においてキリストを証する声を彼らは天の中庭で聞く。」―教会への証6巻p366

 罪の最終的な除去と天の聖所の清めのためには、まず信徒の心(聖所)の罪が除去され、清められる働きが先行されなければならない。個人の生涯から罪の除去と永遠の義が現され、品性が完全にならなければならない。このような経験なしには、聖所の清めと罪の除去はなんの意味もないのである。罪が終わらずに繰り返されるのなら、聖所は再び汚され、心は罪で汚染されるからである。

 魂の不義と罪は聖所を汚す。(レビ記20:2〜3、民数記19:20)地上の大贖罪の日に、イスラエルの民のただ一人でさえ清められなかったなら、大祭司は血を撒くことができなかった。なぜなら、聖所が清められなかったからである。

 2300の夕と朝の終わりである1844年から聖所が清められるという預言は、私たちにどんなメッセージを与えているのであろうか「・・・あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)。

 私たちの生涯において罪が終わらず、完全に到達しないのなら、罪の除去は意味がない。なぜなら除去とは、罪の記録を消去することであるから、罪を犯し続けるのなら、罪の記録を消すことに意味はない。罪が記録され続けるからである。




罪の除去と準備(品性)




 「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。」―各時代の大争闘下巻p215




キリストの義にあずかる者になる




 品性が神の律法と調和することが現されるとき、罪は除去される。

 「人が自分自身の心をキリストにささげる時、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と1つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストの命を生きる。これが、キリストの義の衣を着ることである。」―キリストの実物教訓p292

 「『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』とキリストは言われた(ヨハネ 14:2 3 )。わたしたちは、強く完全な神の意志に心を引きつけられてしまう。それは、わたしたちが、尽きない能力の源と生きたつながりを持つからである。わたしたちの信仰生活は、イエス・キリストに全く捕えられてしまう。もはや、ありきたりの利己的生活は送らなくなり、キリストがわたしたちの内に住んでくださる。イエスの品性がわたしたちの中に再現される。」―キリストの実物教訓p39

 私たちの生涯における罪の除去は、キリストの品性が私たちの中で完全に再現され、神の愛が生活の原則となり、利己心がなくなったときに成就する。聖所の清めと罪の除去は、品性の完全の必然性を教えている。



結論



 第三天使のメッセージと関係のある特別な教理、「神の品性の写しである律法」、「安息日」、「聖所真理」、「調査審判」、「14万4千人の印する働き」、「罪の除去」、「健康改革」などは、「品性の完全」を教えている。1888年に「品性の完全」のために必要なメッセージである「信仰による義認」、すなわち「キリストわれらの義」が神の民に与えられたのである。

 「品性の完全」は信仰によって可能であるというこのメッセージこそ、現代の私たちに真に必要なメッセージなのである。
                                                             ・・・・第2章に続く








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