2月26日説教「神を愛するとは、その戒めを守ることである。」

 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネ5:3

 今日の礼拝の時間は戒めと愛の関係について考えてみたいと思います。そもそも律法というのは何のためにあるのでしょうか?律法とは何なのでしょうか?広辞苑で「律法」という単語をひいてみると次のようなことが書いてあります。第一は「のり。おきて。法律」と定義されています。それから第二として「ユダヤ教で、神から与えられた宗教上・生活上の命令や掟。モーセの五書を指し、広義には口伝のものも含める。キリスト教は律法のかわりに福音を説く」と書いてありました。
 これが有名な辞書に書かれている律法の意味です。「キリスト教は律法のかわりに福音を説く。」これが真実ですか?英語ではcommandments.と書いてあります。(For this is the love of God, that we keep His commandments. And His commandments are not burdensome.NKJV)コマンドメンツがなんですか?
 ヨハネはここで神を愛すると言うことは、十誡を守ることであると教えています。しかし、先ほどの辞典のように多くのキリスト教会は律法の変わりに福音を説くのです。律法は廃されたと主張して、福音を説きます。その結果が何ですか?律法のない福音の結果がなんですか?
 この世の終末にもっとも厳粛な使命が神の民にあたえられました。それは律法と福音です。言い換えるのなら「神の誡めとイエスの信仰」です。律法のない福音ではなく、福音のない律法でもないのです。しかし、セブンスデー・アドベンチストは福音のない律法にかたよっていきました。それで、1888年「キリストはわれらの義である」という使命が与えられたのでした。
 神がセブンスデー・アドベンチストに託されたその使命は非常に厳粛なものでした。この世の最後の時代における人類の生死にかかわるものでありました。そうして現代も残りの民にとってその使命の厳粛さは、衰えていないどころか、もっと厳粛なものとなってきています。1888年神の民に最も必要な使命が与えられたにも関わらず、アドベンチストはこれを拒否し、再臨使命に含まれる福音と律法をほとんど捨ててしまいました。ですから、この使命を最後まで宣べ伝える民が起こされたのです。それがだれですか?試練の時に神の律法に固くたった人々でした。神は律法に固く立った人々を嘉されたのでした。なぜですか?なぜなら、彼らこそが「神を愛するとはその戒めを守ることである」ということを証ししたからでした。
 人間的に考えれば、自分の生死をかけて、神の律法に服従するということは非常に難しいことです。皆さんが彼らの立場だったら、彼らのようにできましたか?なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか?それは本当の意味で彼等は神を愛していたからでした。「神を愛するとはその戒めを守ることである」ということを体験した人々でした。

 私達も間もなく、彼らのような経験をすることになるでしょう。私達の生死をかけて選ばなければならない時がくるでしょう。しかし、その時、真理によって清められていなかった者は皆どうなりますか?聖なる民とは反対の側に立つのです。真理によって清められてこなかったのはどこの群ですか?これは他の教会の人々のことを言っているのではありません。日曜教会の人々はすでに、反対の側に立っています。カトリックと密接になり、エキュメニカル運動に参加し、サタンのわなである心霊術に手を伸ばしているのです。セブンスデー・アドベンチストでさえ、同じ道を歩んでいます。問題は私達です。最後の試練の時、私達の中に問題がおきないでしょうか?
 もし、私達が今信仰を働かせず、真理によって清められていないのなら、反対の側に立つ準備をしていることになります。真理によって清められないということはどういうことでしょうか?それは私達が心を謙遜にして、神の全ての律法に服従しないことを意味しています。
 私達が今日考えてみなければならないことは、私達はどれだけ神の律法を知っているのかということです。どれほど神の律法の要求を理解しているのでしょうか?これを私達人間がどのように扱うかによって、私達は生きることもできるし、死ななければならないことにもなるのです。
私達はですからこの律法について軽く考えてはいけません。神は全宇宙の統治者として法律を制定されました。これが人間の手によって変えられるものですか?人間がこれを無視してもよいものでしょうか?法律というのは、命令です。それを守っても良いし、守らなくても良いという前提のもとに制定されるものではありません。勿論守るか守らないか人は選ぶことができます。しかし、法律は統治される者が必ず守らなくてはならないという前提の下に制定されます。なぜならそれを守ることが幸福になる条件だからです。ですから、それを守らない者は統治者の権威を認めない者、また他人に害を及ぼす者として罰が与えられるのです。
 創造主である神が制定した律法を、被造物が変更できますか?しかし、サタンも人もこのことに対して挑戦してきました。また、現代のほとんどの教会もそのようにしています。日曜教会のある人々は十誡の大切さを認めはします。しかし、それは具体性のない理解と教えに甘んじています。ようするに、神の戒めの深く広い要求を認めようとはしないのです。漠然と神と人を愛しなさい。愛すればよいと教えます。第七日の安息日について言うと、なぜわざわざ昔のユダヤの習慣にこだわる必要があるのかといいます。昔から多くの立派なクリスチャンたちが日曜日に礼拝をしてきたのに、いまさらなぜそれを問題にする必要があるのか?・・・といいます。神は愛の方である。私達の心をご存知の方である。土曜日をわざわざ守って、仕事をくびになり、家族を犠牲にすることを愛の神さまが喜ばれるはずがない・・・といいます。
 これが真理でしょうか?神の愛、神の律法はそんなに軽いものなのでしょうか?神の権威はそのような軽いものなのでしょうか?もし、私達も今、律法に対して浅い観念しか持っていないのなら、後で、必ず吹き飛ばされるようになることでしょう。
 私達は神の律法を高く掲げるものとならなければならないのです。そのためにはどのようにすればよいですか?私達がすべきことがあります。
 その一つは神の律法の要求の深さ広さを学ばなければならないのです。現代もある国々には徴兵制度があります。軍隊に強制的に入らなければならないのです。しかし神の律法に従おうとするのなら、軍隊に入ることはできません。安息日問題を別にしても、軍隊に入って人を殺し、あるいはその助けをすることは神の教えに反することです。もし、それを拒否するのなら、どんなことが起きますか?国の法律に故意に服従しないものとして、自由を拘束されます。しかし、牧師が来てどのようにいいますか?「これは仕方がないことである。神はこのような事情を全部ご存知です。あなたが神を愛しているのは神様が全て知っています。ですからこのような場合は国の法に従わなければなりません。非常事態だから、敵を殺すことも仕方がない。だれかが戦わなければどのように国を守ることができますか?敵を殺さなければ、どのように福音を全世界に伝えることができますか?旧約時代には神の民は戦争に参加し、敵を殺したではないですか?神は愛の神ですから、私達のことも許してくださいます。」・・・といいます。

 なぜこのような話になりますか?神のご品性を理解しないからです。神の愛がどのようなものか、神の律法がどんな要求をしているのかを知ろうとしないからです。また、知っていても従おうとしないからです。サタンは特別にこの律法に対して憎しみを持っています。なぜならこれが神のご品性の写しだからです。サタンは人に神の律法を誤解させよう、無視させようと働いています。
 古代イスラエル人はこのサタンの誘惑によって、神の律法を誤解しました。神の律法を誤解するということは、神の愛を誤解するということです。
 現代多くのクリスチャンたちが神の愛を口にします。どこでも愛、愛といいます。しかし彼らの致命的な誤解は何ですか?神の愛は罪を是認しないということです。罪は神の法律によって定められるものです。愛、愛といいながら罪を是認するのなら、そこに真の愛はありますか?真の愛は幸福をもたらすものです。しかし愛、愛といいながら、罪を是認するのなら、そこに真の幸福はありえないのです。殺してはならないと命令されているのに、人に対して憎しみの心を持つのならどうですか?「あなたも人間で弱いから人を憎むこともある。その思いも神はご存知です。そのようなことで心を敏感にし、罪悪感をもつ必要はないのです」と牧師がなぐさめます。これが愛のことばですか?そのようなことを言われると、人々は「ああ本当に愛に満ちた素晴らしい牧師さんです」と感謝します。しかし、これが本当の愛でしょうか?

 あなたの子供が人を殺そうとしていたらどうでしょうか?親はどんなことをしてもその子供を止めようとしないでしょうか?「あなたの好きにしなさい。殺したかったらそれも良い経験だ」と言うでしょうか?もしその子供を心から愛するのなら、どんなことをしてもその子供を止めることでしょう。なぜそうしますか?自分が人殺しの親であると非難されたくないから止めますか?その子供が不幸になることがわかるから止めるのではないでしょうか?その悪をなすのなら、殺された人は勿論、殺した本人も不幸になることがわかるから止めるはずです。
 神の愛も同じです。神は御自身をただ高めるために神の法にしたがうように命じられますか?そうではありません。もし、そうなら神の御子をなぜ死に渡しますか?神は私達が罪を犯すことによって不幸になって欲しくないのです。ですから神の法に従うことを命じられるのです。
イスラエル人たちはこの点において理解することに失敗しました。それで彼らは神の目的を果たすことができなくなりました。サタンはこのことを理解できないように熱心に働いています。私達も気をつけなければなりません。私達は過去の失敗から教訓を受け、同じ罪を繰り返さないようにしなければならないのです。

 「しかし、イスラエルは律法の霊的性格を理解せず、彼らのいわゆる服従とは、心が愛の主権に従うことではなく、単に形式と礼典の遵守にすぎないことがあまりに多かった。イエスがご自分の品性とお働きによって、神のきよく情け深い、父としての性質を人々に現し、単に儀礼的な服従の無価値なことを示された時にも、ユダヤ人の指導者たちは、イエスの言葉を聞きいれず、また、理解もしなかった。彼らは、イエスは律法の要求をあまりに軽視していると考え、神から命じられて彼らが行っている、宮の奉仕の心髄である真理そのものが目前に示されると、かれらはただ外面ばかりを見て、イエスはその奉仕を破壊しようとしているのだと非難した。」祝福の山p58

 彼らは律法に服従していると宣言しながら、その律法を否定していました。それどころか、この律法の制定者であり、律法の写しであられる方を十字架につけてしまったのです。なぜこのような愚かなことをしましたか?彼らは律法の霊的な性格を理解しなかったからです。律法のうわべだけをみてその本質、霊的な性格を理解しようとしなかったのでした。しかし、このことは現代のクリスチャンたちにおいても繰り返されています。そうしてこの私達の中でも繰り返される恐れがあるのです。

 律法を認めないで、偽の福音を伝える日曜教会はいうまでもなく、神の律法を高めると公言するクリスチャンたちの中でさえ、律法の霊的性格を理解していないということがありえるのです。

 私達は礼拝します。しかし、礼拝とはなんですか?なぜ礼拝しますか?またなぜ第七日ですか?またなぜ教会に来て礼拝しますか?
これらの問題に対して私達は答えられなければなりません。そうでないとサタンが様々な誘惑を私達に持ってくるとき、私達の信仰が揺らぎ倒れるかもしれないのです。

 礼拝とはそもそもなんですか?私達が礼拝する理由はなんですか?私達が礼拝する根本的な理由は私達が被造物であるということです。ですから私達が礼拝する対象は創造主なのです。造られた者が造ってくださった神を礼拝するのがあたりまえのことです。ですから創造の記念日である第七日に創造主であられる主なる神を賛美し、感謝し、聖なる思いをもって神のご品性を瞑想するのです。しかし、問題はわたしたちが本当に神を礼拝しているのかということです。言い換えるのなら本当に神の戒めに従っているのか?私達の礼拝が神に受け入れられているのか?昔、石で祭壇を作り犠牲の小羊を捧げた時、天から火が降ってきて、その礼拝が神に受け入れられたことがわかったように、私達の礼拝は神に受け入れられるものでしょうか?私達の礼拝がどのようなものなら真に神が喜び、受け入れていただけるのでしょうか?

 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」(ヨハネ 4:23、2 4 )

 霊とまこととをもって礼拝する。これが神に受け入れられる礼拝です。霊とまこととをもって礼拝するとはどういうことなのでしょうか?そうして私達の礼拝ははたして霊とまことをもっているものなのでしょうか?

 「イエスがニコデモに、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われた時に示されたのと同じ真理がここに宣言されている(ヨハネ 3:3 )。人は、聖なる山や聖なる宮を求めることによって天とのまじわりに入れるのではない。宗教は外面的な形式や儀式に限定されるのではない。神から出ている宗教だけが神へいたる宗教である。神に正しく仕えるためには、神のみたまによって生れなければならない。みたまは心をきよめ、思いを新たにし、神を知り愛する新しい能力をわれわれに与える。それは神のすべてのご要求によろこんで従う心をわれわれに与える。これが真の礼拝である。それは聖霊の働きの実である。みたまによって、すべての真実な祈りはことばとなり、このような祈りは神に受け入れられる。魂が神を追い求めるところにはどこでもみたまの働きがあらわれ、神はその魂にご自身をあらわされる。神はこのような礼拝者を求めておられる。神は彼らを受け入れて、ご自分の息子娘にしようと待っておられる。」DA上p224

 私達はこのような礼拝者とならなければなりません。別の言い方をするのならば、私達は霊とまこととをもって神の律法に服従しなければならないということです。霊とまこととをもって神を愛し、また隣人を愛さなければならないのです。またこれは「心をつくし精神をつくし、思いをつくして」愛すると言い換えることもできるのです。

 福音と信仰、また神の愛について多くの教会は教えています。しかし、その中に律法がどのように関係しているかをはっきりと理解し、教える教会はほとんどないのです。これがないがために魂は危険な状態になります。人が暗い光の中にいるのは決して神の御心ではないし、神に嘉される品性をその中で築くことは非常に難しいのです。なぜなら、大きな問題は、律法なしに真の罪の自覚、またキリストの必要をはっきりと自覚することができないからです。その結果、福音、信仰と愛、神のご品性について誤解します。これが誰の策略ですか?サタンです。

 しかし、最後の残り教会にはこれがあります。まさにこの真の福音を伝えるために、神は一つの民をおこされたのでした。ですから、私達がこれをはっきりと理解して、伝えなければならないのです。
 私達は今期の教課ではっきりとした境界線をもたなければならないことを学びました。何と何の境界線ですか?今私達は教課で昔の歴史から学んでいますが、これらの学びをただ昔あった事実としてだけ捕らえてはいけません。私達個人、また私達教会に当てはめて教えを受けなければならないのです。
 この前、捕囚から帰ってきた人々がサマリヤ人たちの援助の申し入れにどのようにしたかということを学びました。
サマリヤ人はどのような人でしたか?彼らはイスラエル人と、アッシリアからサマリヤに来た移民との間に生まれた人々でした。彼らはどのように主張していましたか?彼らは真の神を礼拝していると言っていました。自分たちも神殿の務めに関連した特権と祝福にあずかりたいという主張したのでした。
 彼らが協力したいといってきたとき、ユダの指導者たちはどのようにしましたか?彼らは拒否しました。人間的に考えるのなら、ひどいことではないですか?助けてあげようといっているのですから、助けてもらえばよいではないですか?しかし、もし、彼らがそのようにしていたら、問題が起きていました。
 現代も残りの民からみてサマリヤ人のような存在がいますか?彼らはどのような人々ですか?彼らもクリスチャンであると主張します。彼らも真の神を礼拝していると言うのです。しかし、神はこの点においても原則を示しておられます。神がひとつの民を選ばれた目的は何ですか?イスラエル人たちはこの点において失敗しました。彼らは排他的精神をもち、世の光ではなく世ののろいとなったのでした。神は一つの民を光とし、その一つの民を通して他の人々を救われようとしました。この方法は今も同じです。この神の方法を理解しないと、つりあわないくびきを共にして、偶像礼拝が侵入する穴を開けるのです。また、反対に排他的になって、世の光にならずに、自分たちだけを高めようとする愛のない律法主義に陥ってしまうのです。私達はこのどちらにもならないように気をつけなければなりません。

 「神は、『彼らとなんの契約をもしてはならない』と仰せになった。そして、このたび神の神殿の廃虚の前に築かれた祭壇において、主に再献身を誓った人々は、神の民と世俗との間には、常にはっきりした区別がなければならないことを自覚したのである。彼らは、神の律法の要求するところを知っていると言いながら、それに従わない者たちと、同盟を結ぶことを拒否したのである。」PK下巻176
 どこに区別がなければなりませんか。神の民と世俗との間です。では何が世俗ですか?私達はこの点をよく理解していなければなりません。古代において選民たちがどれほど特殊な民でしたか?その服装においてもまた習慣、また思考においても世とははっきりと区別するようにと神からの命令がなされていました。
 これは現代の残りの民においても同じであります。残りの民は生活においても、そうして思考においても、純粋性を保つようにしなければならないのです。その為に不必要なすべての事を絶たなければならないのです。そうしてなおかつその動機が神と人に対する愛であるべきなのです。

 「イスラエルの教訓として申命記に示された原則は、神の民が終末に至るまで従わなければならないものである。真の繁栄は、われわれが神との契約関係を持続することにあるのである。われわれは神を恐れない人々と同盟を結んで、原則を曲げることはできない。」同上p177

 この原則は神の民がいつまで従わなければなりませんか?終末にいたるまでです。真の繁栄がなんですか?組織が大きくなることですか?教会員が増えることですか?そうではありません。真の繁栄とは、私達がキリストのみ姿を反映することです。しかし、そのためには神との契約関係を持続するのが条件です。ですからその契約関係を妨げる恐れのある全ての事柄を遠ざけなければなりません。しかし、これは全てのことにおいて排他的になるということではありません。そのことがイエスキリストのご生涯において教えられたことです。イエスはサマリヤ人に対してどのようになさいましたか?他の人々にように全く無視なさいましたか?そうではありません。ですから私達はこの点について誤解しないようにしなければならないのです。両極端になってはいけません。私達の働きは自分が他の人の祝福となるということです。その反対を求めることによって、私達は偶像崇拝の道を開くことになるのです。

 「キリスト者であると公言する者が世俗の人々に影響を及ぼすためには、ある点まで世俗と妥協しなければならないと考える危険が常にある。しかしそのような行動は、大きな利益をもたらすように思われるが、それは常に霊的損失に終わるのである。真理の敵はへつらいによってわれわれを誘い、取り込もうとしてあらゆる陰険な手段を用いてくるから、神の民は厳重に警戒していなければならない。彼らはこの世界においては、危険に満ちた道を旅する旅人であり、寄留者である。彼らは、忠誠の道からそらそうとして向けられる、巧妙な口実や魅惑的な誘惑に心を引かれてはならない。」同上

 どのような危険が常にありますか?しかし、このようなことは常に霊的な損失に終わるのです。
 「最も恐るべきものは、神の働きに公然と反対する敵ではない。ユダとベニヤミンの敵のように、なめらかな言葉と美しい表現を用いて、いかにも神の民と友好的同盟を求めるかのように近づいてくる者たちが、もっと大きな欺瞞力を持っている。このような人々に対して、1人1人は十分警戒して、注意深く隠された巧みなわなに、気づかずに捕らえられることのないようにしなければならない。」同上

 サタンは私達に対して最も憎しみの対象として攻撃してくるのです。そうして小さな針の穴を私達に開けようと努力します。ですから私達はどれほど警戒し、原則に固く立ち神に頼っていなければならないでしょうか?私達は残りの民の純粋性を犯すようなことをどんなことにおいても決してしてはならないのです。ダニエルの3人の友達はどのようにしましたか?彼等はネブカデネザルの顔をたてて、一度だけ金の像に頭を下げれば、それですんだのではないですか?神は彼等が神だけを愛するということをご存知のはずではなかったのですか?しかし、彼等は「ふりをする」ことさえ拒否したのでした。

 「神を愛するとはその律法を守ることであり」ます。ではこの働きをどのようにしたらよいでしょうか?現代、日曜教会では「律法を守るという意味は、十誡を守ることであると教えません。なぜなら、もしそれを認めるのなら自分たちが律法を犯していることを認めなければならなくなるからです。ですから十誡は廃された、もしくは変更されたと主張します。ですから神の律法を守るということは、ただ神と人とを愛することであると教えます。しかし、ここには欺瞞が隠されています。神は十誡について神と人への愛が原則であるということを教えました。しかし、具体的に示された十の命令が廃されたとは言われなかったのでした。この点において理解が欠けていると、どのようなことが起きますか?様々な偶像礼拝に陥る可能性があるのです。それはただ古代のような偶像だけでなく、自分自身やまた世を偶像とすること、また牧師を偶像とすることへの道を開くのです。ですから日曜教会の人々がどのようにしていますか?心霊術の道に足を踏み入れているのです。牧師が預言するといいながら占いをし、異言をかたるといいながら、悪霊の働きに心を明け渡しているのです。これが神の律法を無視する結果です。
 真の意味で私達は神の律法を守る者とならなければなりません。しかし、そのようになるためには私達がしなければならない働きがあります。もし、この経験がなく、いくら神の律法を守ろうと努力してもそれは真に神を礼拝することになはならないのです。いくら礼拝の形式を厳守しても、律法の上辺だけを厳格に守っても、それは神に受け入れられるものではないのです。塩のかけた犠牲のように、そこには大切なものが欠け致命的なのです。律法学者たちも熱心な人たちでした。しかしその熱心さがキリストを殺したのでした。なぜなら彼らにはもっとも大切なものが欠けていたからでした。

 「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」ローマ8:2〜8

 このみ言葉読んで何を理解しますか?私達に欠けていたものは何でしたか?そして私達はどのようにして律法の要求に応じることができますか?
 「人間を神の律法の原則に調和させることによって神と和解させるのは、改心と清めの働きである。初めに、人間は神のかたちに創造された。人間は、神の性質と神の律法とに完全に調和していた。義の原則が、彼の心に書かれていた。しかし、罪が、彼を創造主から引き離した。彼は、もはや、神のかたちを反映しなくなった。彼の心は、神の律法の原則と争うようになった。『肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである』(ローマ 8:7)。しかし、神は、人間が神と和解することができるように、『そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。』人間は、キリストの功績によって、創造主との調和を回復することができるのである。彼の心は、神の恵みによって新しくされなければならない。彼は、上からの新しい生命を受けなければならない。この変化が新生であって、これがなければ「神の国を見ることはできない」とイエスは言われるのである。」GC下p194

 アダムとエバの罪によって私達は生まれながらに神の律法の原則と争うようになったのでした。しかし、私達には救いの道が開かれました。神の律法に従うことができるように神は私達にみ子イエス・キリストを与えて下さったのでした。ならば私達のすべきことは何ですか?多くの人々はここで留まります。頭で理解することで留まるのです。実際信仰を働かせて、聖霊によって生まれ変わる経験までしようとはしないのです。多くの人々が心の中でニコデモのようにつぶやきます。「どうして新しく生まれ変わることができるのか?私はもう霊的な大人に成長しているのに・・・」。その結果どうしますか?他の方法を探し出そうとします。自己が死なないですむ方法です。自分を神に完全に明け渡さないで済む方法です。しかし、そこに命がありますか?ないのです。新しく生まれ変わることができないのです。
 「だれでも・・・」です。どんな人でも聖霊によって新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできません。これが神を愛する者、真に律法に従うものの条件です。

 「律法は、人間に罪を示すが、救いは与えない。律法は、服従する者には生命を約束するが、犯す者には死を宣告する。人間を罪の宣告や罪の汚れから解放することができるのは、キリストの福音だけである。人間は、神の律法を犯したのであるから、神に向かって悔い改めなければならない。そして、キリストに対しては信じてその贖いの犠牲を受け入れなければならない。こうして人間は、「今までに犯した罪のゆるし」を受け、神の性質にあずかる者となる。彼は、子たる身分の霊を授けられた神の子であるから、「アバ、父よ」と呼ぶのである。」同上195

 律法に救いを与える力はないのです。しかし、律法学者たちはその力があるかのように信じました。そこに問題がありました。彼らは福音に目を向けることができませんでした。私達は悔い改めなければなりません。なぜですか?私達が殺人犯であり、窃盗犯であり、神を侮辱した者であり、偶像礼拝者だからです。そうしてキリストを信じその贖いの犠牲を受け入れなければならないのです。
 これが霊と真をもって神を礼拝するということです。神はこのような礼拝者を望んでおられます。この経験をする者の叫びがなんですか?「アバ、父よ!」です。アバが何ですか?これはアラム語ですが、子供がお父さんを呼ぶときの言葉です。キリストはゲッセマネにおいてもこの言葉を使っています。
 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」マルコ14:36キリストはみ父の実の子としてこのように父なる神を呼ばれました。
 しかし、キリストは私達にもこの言葉を使えるようにしてくださったのです。私達は神の養子とされました。罪の許しを得て、神の性質に預かるものとなり、実の子たる身分の霊を授けられたのでから、「アバ父よ」と呼べる特権を持てるのです。それほどの親しみをもって私達もみ父を愛しなさいということです。これが神を愛するとはその律法を守ることであるという意味です。そうしてその戒めはなんですか?難しいものではない。重荷ではない。耐え難いものではないという意味です。なぜですか?キリストが私達の模範となってくださったからです。キリストが「アバ父よ」と呼んだように、私達もキリストを通して「アバ父よ」と呼ぶ特権に与るのです。これが新しく生まれ変わったものたちの特権です。
 「・・・・人の心は、新しく生まれることにより、神の律法と一致するとともに、神と調和するようになる。この大きな変化が罪人の中に起きたとき、彼は、死から生命へ、罪から聖潔へ、違犯と反逆から服従と忠誠へと移ったのである。神から離反していた古い生活は終わった。和解の生活、信仰と愛の新しい生活が始まった。こうして、「律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる」のである(ローマ 8:4)。その時、「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います」という魂の言葉が発せられるのである(詩篇 119:97)。」同上195

 新しく生まれ変わるという経験によって私達は神と神の律法に一致するのです。神は石の板ではなく、心に律法を書きつけてくださるのです。「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。」ヘブル8:10

 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」る( 詩篇 1 9 :7)。人間は、律法がなければ、神の純潔と神聖さ、あるいは自分自身の罪と汚れについて、正しい考えを持つことができない。罪についての真の自覚もなく、悔い改めの必要も感じない。自分たちが神の律法の違反者であるという失われた状態を悟らず、キリストの贖罪の血の必要を自覚しないのである。心の根本的変化も生活の改変もなしに、救いの希望を受け入れる。このような表面的改心が広く行われていて、キリストと結合したことのない多くの者が教会に加えられているのである。また、神の律法の軽視や拒否から生じるところの、誤った聖化論が、今日の宗教運動において顕著な位置を占めている。これらの理論は、教義的に偽りであり、実際的結果においても危険である。そして、それらの説が一般に歓迎されているという事実を見る時、この点についての聖書の教えをすべての者がはっきり理解することが、なおいっそう必要となる。」

 私達に与えられた真理と特権がどれほど大きなものなのでしょう。これをもし、もっとはっきりと理解するのなら、私達の心ももっと神のみ言に向けられるのではないでしょうか?

 「われわれが変化するのは、ながめることによってである。神がご自分の品性の完全さと神聖さを示されたこれらの聖なる戒めを、人々がなおざりにし、人間の教えや理論に心をひかれるならば、教会内で生きた敬虔の念が低下しても少しも不思議ではないのである。主は言われる。彼らは、「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った、それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ 2:13)。』GC下209

 私達は神の戒めを回復しなければなりません。それはまず私達の個人的な経験において、私達が生まれ変わることによって始められなければなりません。そうすることによって、私達のこの教会も変わります。人間的な方法によるのではなく、人の考えによるのではなく、神の方法、神の愛によって変わるのです。

 「神の律法が、その正当な位置に回復されて初めて、神の民と称する人々の間に、初代教会の信仰と経験のリバイバルが起こりえるのである。」

 初代教会の信仰と経験のリバイバルを私達の中でみたいでしょうか?経験したいでしょうか?もしそうなら神の方法を学び、それに従わなければなりません。

 この経験を私達ができますように、神が豊かに聖霊の祝福を与えてくださいますように心からお祈りいたします。

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