救いの7千年史 第1章 「天で始まった善悪の大争闘」

まえがき


 
人類に7000年という期間が定められている。神はこの期間を通して何をなさろうとしておられるのであろうか?

 神のご品性は愛であられ、律法も愛である。そしてこの律法は神の統治の基礎である。であるから、造られた者たちの幸福はこの律法に完全に服従することにかかっている。

 しかし、この律法に対して反逆の精神をもった者がいた。ルシファーである。彼は神の律法には欠陥があるので、改良しなければならないと主張した。それで神は彼にその主張を実行することをお許しになったのである。

 神は7000年という期間にわたる人類の救いの計画を定められた。そしてこの期間を通してご自身の愛と正義を証明し、また悪の正体を暴露なさろうとしておられるのである。全宇宙は欺瞞者が主張したように、律法を変更するならどのような結果になるのかを見なければならない。そうすることによって神の律法に対する不変性が永遠のものとして完全に認められるのである。神は造られた者たちから恐怖心ではなく、自主的な愛の精神によって崇められることを望まれるのである。

 「この恐るべき反逆の歴史は、すべての清い者たちを永久に守るものとなり、彼らが罪の性質に関して欺かれることがないようにし、罪を犯し、その罰を受けることがないように、彼らを救うものとなるのであった。」人類のあけぼの上巻15

 あなたにも「6000年」という地上歴史の中の1ページが与えられている。あなたはその1ページにどのような記録を残すのであろうか。神の律法の正当性を証するか、それともサタンの主張を証するのでしょうか。

 この読み物は7000年間にわたる善と悪の争闘がどのようなものかを明らかにしている。読者が神の愛と律法の正当性を証する者となる経験ができることを祈るものである。                                                            編者



第1章「天で始まった善悪の大争闘」



 聖書は初めの戦いが天で始まったことを記録している。「さて、天では戦いが起こった。ミカエルとそのみ使いたちとが、龍と戦ったのである。…」黙示録12章7節のみ言葉である。すなわち、ミカエル(イエス)とそのみ使いたちが、龍(サタン)また彼の使者たちと戦ったのであった。

 聖書に記録されたこの戦いに対してわたしたちは一つの疑問を捨てることができない。戦いとは双方の力が類似しているときに可能であって、もしどちらかの力が一方的なら、戦いになることはないであろう。20代の壮健な青年と5、6歳の子供たちとの戦いが成立するであろうか?キリストは創造主でありサタン(龍)は造られた者である。つまり創造主は全能であり、その御言で天地を創造なさった方である。であるからキリストはその御言葉でサタンを存続させることも、また存在しなかったようにもできたのである。であるのに、なぜミカエル(イエス)と龍(サタン)との戦いが成立したのであろうか?

 わたしたちは以上の理由から天で起きた戦いは、物理的な戦いではないという事実を理解することができる。物理的な戦いであったのなら、イエスはその御言葉によって一瞬のうちに、サタンの存在を無とされたことであろう。では天で起きた戦いは、いかなる戦いだったのだろうか?イザヤ書14章12節から14節を読んでみると、サタンが先に戦いを起こした事実、彼の動機と目的が記録されている。

 「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」

 サタンが戦いを起こした動機は、造られた者であるサタンがいと高き創造主と同等になろうとしたということである。しかしサタンが本質的に神と同等になることは不可能である。神は創造主でありサタンは造られた者なので、最初からその身分が本質的に違うだけでなく、神は命の源であり、サタンは神から命を受けて存在しているのである。それだからサタン自身が、自分は本質的に神と等しくなれないという事実をよく知っていたのである。であるなら、サタンの「いと高き者のようになろう」という言葉の意味は何なのだろうか?どのようにしたら神と等しくなることができ、その試みが可能であると考えたのであろうか?



律法の戦い




 「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のために律法を変更することが必要であることを証明しようとしてきた。」人類のあけぼの上巻62

 最初からサタンは神の律法に対して戦ったのである。なぜであろうか?サタンが神の律法に対して論争を始めた目的を知ることはとても重要である。

 それはサタンが神と同等になるためである。彼が本質的に神と同等になる事は不可能である。しかし、神の律法に言い掛かりをつけ変更することによって、神と同等な待遇を得られると彼は考えた。だからサタンは神の律法には欠点があるので変更しなければならないと主張した。サタンの主張どおりに神の律法に欠点が発見され、律法を変更したとしたら、本質的には神と同等になることは不可能だとしても、サタンの知恵と知識は神と同等であると認められるようになるはずであった。

 次の記録がこの考えを証している。

 「法王制は、神の律法を変更することによってのみ、自らを神よりも高くすることができたのである。だれであっても、こうして変更された律法を、それと知りつつ守るならば、律法を変更した権力に最高の栄誉を帰していることになる。」各時代の大争闘下巻166

 法王制は一人の人間として神と同等の権威を主張し、神より自分の権威を高めようとした。それはすなわち神の律法を変更させることによってのみ可能だった。この方法はかつて天でサタンが試みた方法だった。以上の理由により天における戦いは武力の対決でなく「律法の戦い」であったことがわかる。もし物理的な力の戦いであったのなら、サタンがいくら特別な能力を持った者だったとしても、キリストの敵にはなれないのである。

 それだから神の律法に欠陥があるというサタンの主張は、武力で鎮圧させることのできるような性質のものではなかった。そして神は決して武力や暴力をお使いにならなかったのである。

 「このことは、暴力によってなすことはできないのであった。暴力の行使は神の統治の原則に反する。神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみ目覚めさせられる。神を知れば神を愛するようになる。神のご品性がサタンの品性と対照的に示されねばならない。」各時代の希望上巻4、5

 神の律法には欠陥があるというサタンの主張が偽りであることが証明されるためには時間が必要であり、その時までサタンは生存しなければならないのである。

 サタンは神の律法に欠陥があるという証拠が必要であったし、そのような証拠を得るために努力した。このように天で起きた戦いは、律法に欠陥があるか無いかを究明するものであった。法的戦いにおいては一個人が国に対して戦うこともでき、また戦って勝つことも可能だからである。

 天で起きた戦いはまさにこのような法的な戦いであった。もし神の律法にサタンの主張どおりの欠陥があったなら、サタンは勝利し、彼は神と同等の栄光を享受する存在になったに違いない。しかしサタンは天において、神の律法に欠陥があるという証拠を探すことに失敗した。しかし天使たちの三分の一の支持と同意を得る事に成功した。

 「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(黙示録12:7〜9)

 「その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。」(黙示録12:4)

 しかし多数の天使たちは神の律法を擁護しキリストに従ったので、天における律法の戦いにおいてサタンは敗北した。

 戦いに負けたサタンは天から追い出されてしまった。しかし、サタンは地上に生まれたばかりの人類の先祖をだますのに成功した。だから天で始まった律法の戦いが、今度はこの地上において新局面を迎えることになったのである。この戦いはやはり神の律法に対する戦いであり、「真理」と「誤謬」、「善」と「悪」の戦いである。そしてこれこそ天で起きた反逆の続きである。次の証を読んでみよう。

 「神の戒めを軽べつするために、サタンは聖書の教えを曲解し、そうすることによって、聖書を信ずると告白する幾千もの人たちの信仰に誤謬を混ぜてきた。真理と誤謬の最後の大争闘は、長い間続いてきた神の律法に関する論争の最後の戦いにほかならない。われわれは今や、この戦い、すなわち、人のおきてと主の戒めとの間の、また、聖書の宗教と作り話や言い伝えの宗教との間の、戦いに入っているのである。」各時代の大争闘下巻344




神の律法に対するサタンの欺瞞




 サタンは天で律法に対して反逆を起こし、律法の権威を覆して自分が神と同等の栄光と尊敬を得ようと考えた。しかし彼の計画は天において成功できなかった。だから彼は今、この地球に自分の国を建設し、律法と神に敵対する戦いを続けている。神の律法に対するサタンの様々な欺瞞は、天で始まった律法の戦いが継続しているということである。サタンの主張を確認してみよう。



1.律法無用論



 「彼は、天使たちを支配していた律法に対する疑惑をほのめかし始めた。そして彼は、諸世界の住民にとって、律法は必要であろうが、天使たちは、彼らよりもすぐれたものであり、自分自身の知恵が十分な道しるべとなるから、こうした制限は不必要であると言った。彼らは、神のみ名を汚し得るものではない、その思想もすべて清いのである、神ご自身があやまりを犯すことがありえないと同様に、彼らもあやまちを犯すことはありえないと言うのであった。」人類のあけぼの上巻7ページ

 「ルシファーは、神のみ座のすぐ近くにある自分の座を離れて、天使たちの間に不満の精神をひろめるために出て行った。彼は神秘的な秘密をもって働き、一時は神に対する尊敬をよそおって自分の真意をかくし、天の住民を支配している律法によって不必要な束縛が加えられているとほのめかしながら、律法に対する不満の念を引き起こそうと努力した。天使たちの性質は聖なのだから、彼らは自分自身の意志の命令に従うべきであると彼は説いた。」各時代の大争闘下巻231、232



律法は無用だというサタンの意図




 神の律法は天国の政府の基礎となる。それなのに律法が必要ないという主張は、神の政府自体を否認し、転覆しようとするサタンの計画だった。

 「愛の律法が神の統治の基礎であるから、すべての知的存在者の幸福は、その偉大な義の原則に彼らが完全に一致することにかかっている。」人類のあけぼの上巻3




2.律法には欠陥がある




 「自分は、神に完全な忠誠を尽くしていると言いながら、神の政府の安定のために、天の秩序と律法の変更が必要であると、彼は力説した。」人類のあけぼの上巻8

 「彼が神の統治の秩序と律法の変更を強調した時も、天の調和を保つためにはそうすることが必要であるというふうに見せかけた。」各時代の大争闘下巻235



神の律法に欠陥があるという欺瞞




 律法は神のご品性の写しであり、心の表現である。それだから律法に欠陥があるという主張は、神の品性に欠陥があるということになる。これがどれくらい恐るべきサタンの欺瞞なのであろうか?

 「神の律法は、神ご自身と同様に、神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。造られたものの調和は、生物であれ、無生物であれ、すべてのものが創造主の律法に完全に一致することにかかっている。」人類のあけぼの上巻38

 「神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しい方だけであった。」人類のあけぼの上巻53

 「律法は神の思想のあらわれである。キリストのうちにあって受け入れられる時、それはわれわれの思想となる。」各時代の希望中巻13

 「神の律法は神のご品性のあらわれであって、その律法の原則を心に受け入れる時に、心と魂には神のみかたちが書き写されるということを、父母たちは子供たちに教えるのであった。」各時代の希望上巻60



3.律法は守れない?




 「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義と憐れみは両立しない、もし律法を破ったら罪人がゆるされることは不可能だと宣言した。すべての罪は罰を受けねばならない、もし神が罪の罰を免除されるなら、神は真実と義の神ではないと、サタンは主張した。人類が神の律法を破り、神のみこころに反抗した時、サタンは狂喜した。」各時代の希望下巻287

 「サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した。事実、自分の力では、わたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合する時、人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。」キリストの実物教訓293




神の律法は守れないと主張するサタンの意図




 神の律法は守れないというサタンの主張は、神のご品性を完全に誤って表した。「神は愛である。」それなのにもし神が被造物の守ることのできない律法を作った後、「守りなさい」と命令されたのなら、どうして神が愛の神であると言うことができるのだろうか?サタンの言葉が真実なら、神は無慈悲な方であって、暴君であると言わざるをえない。なぜなら守ることのできない法律作って、それを守れと命令されたからである。

 今日どれほど多くの人々がサタンの欺瞞にだまされていることだろうか。多くの人々が神の律法を完全に守るのは不可能だと考え、それを無視し、神を信じると公言する多くの教会までがそのように教えている。さらに驚くべきことは第三天使の使命を信じるという人々の口からでさえ、神の律法を完全に守ることは不可能だという話を聞く。これほど恐ろしいサタンの欺瞞があるだろうか?

 「神は、だれかが従うことのできないような戒めをお与えになってはいない。神の律法は、不合理な制限や利己的な制限を是認しない。」各時代の希望上巻248

 「キリストのように律法に従う者はみな同じように、律法が『聖であって、正しく、かつ善なるものである』ことを宣言しているのである(ローマ 7:12) 。一方、神の戒めを破る者はみな、律法が不正であって従うことのできないものであるというサタンの主張を支持しているのである。こうして彼らは大敵サタンの欺瞞の後おしをし、神をはずかしめる。彼らは神の律法に最初に反抗した悪者サタンの子らである。」各時代の希望中巻15

 「義と公平はあなたのみくらの基」(詩篇97:1;詩篇89:14)

 「神の律法は、その性質そのものから考えても、不変のものである。それは、その制定者の意志と品性の啓示である。神は愛である。そして、神の律法は愛である。その二大原則は、神に対する愛と人間に対する愛である。『愛は律法を完成するものである』(ローマ 13:10)。神の品性は、義と真理である。神の律法の性質もそうである。詩篇記者は言っている。『あなたのおきてはまことです。』『あなたのすべての戒めは正しい』(詩篇 119:142、172)。そして、使徒パウロは、『律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである』と宣言している(ローマ 7:12)。神の心と意志の表現であるこのような律法は、その制定者と同様に永続的なものでなければならない。」各時代の希望下巻194




アダムはサタンの証人




 法的な戦いには証拠が必要である。サタンは神の律法には欠陥があり、変更されない限り守ることのできない律法だと主張した。であるから、サタンは自分の主張を裏付ける証拠を必要とした。サタンが自分の主張を証明できる証拠を持たないなら、彼の主張は法的な効力を得ることができないのである。次の言葉がこのような事実を暗示している。

 「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。この争闘において、神の律法が不完全なもので、変更が必要であるか、それとも、完全で不変のものであるかが示されるのであった。」人類のあけぼの上巻62
 
 サタンは自分の主張を証明する証拠が必要だった。天で自分の場所を得ることのできなかったサタンがこの地に追い出されたとき、この地には神の形に創造された幸福な夫婦アダムとエバが住んでいた。彼らの幸せな姿からサタンは永遠に失った自分の幸福を思い、キリストに対する嫉妬と神に対する憎悪心でいっぱいになった。サタンはこの幸福な夫婦を自分の計画に参加させようと計画した。

 悲しいことにアダムは実に簡単にサタンに征服され、全天に悲しみをもたらした。一方サタンはアダムの罪によって、神の律法に欠陥があるという証拠を得たと考え、小躍りして喜んだ。

 「エバに対するアダムの愛は強かった。すっかり落胆してしまったアダムは、エバと運命を共にする覚悟をきめた。彼は木の実をつかんですばやく食べた。サタンは狂喜した。彼は天において反逆を起こし、彼を愛し彼の反逆に参加した共鳴者たちを得ていた。」初代文集258

 サタンはアダムという同調者を得た。サタンはすぐ天に昇って行き、アダムの罪を主張しながら、神の律法には欠陥があって、守ることのできないものだと主張した。次の証を読んでみよう。

 「サタンは、神の律法が不公正で従うことのできないものであるという証拠として、アダムの罪を指摘していた。」各時代の希望上巻124

 悲しいことにアダムは罪を犯すことによってサタンの証人となってしまった。神のかたちに似せ、完全に造られたアダムが罪を犯したのである。神のみ座の基礎である律法の性質は「義」と「憐れみ」で構成されていた。しかしサタンは「義」と「憐れみ」が共存するのは不可能だと主張した。

 「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義と憐れみは両立しない、もし律法を破ったら罪人がゆるされることは不可能だと宣言した。」各時代の希望下巻287

 アダムの罪によって義と憐れみが共存するのは不可能だという事実が証明されそうになった。律法が要求する「義」とは何か?すなわち「罪を犯した魂は死ぬ」ということである。「食べると死ぬ」と言われた神の律法は、アダムの死だけで満足させられるのであった。しかしアダムの死によって律法の義は満たされ、罪を犯した魂が死ぬことによって終わってしまうなら、「憐れみ」は何の意味があるのか?憐れみは存在しえないのである。

 神の憐れみは義を倒さずにアダムを救わなければならなかった。このようなことがいかにして可能であるのか?被造物の知恵では不可能なことであり、サタンもまたそのように考えた。これは神の律法を変更するしか方法のない確実な証拠だと考え、サタンは喜んだ。義を立てれば憐れみが倒れ、憐れみを立てると義が倒れると言う結果をもたらすからであった。

 神のご品性は「 あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、…およぼす者」」(出エジプト記34:6、7)。神のご品性はすなわち義と憐れみが共存するのである。アダムの罪によって神の律法はテストを受けた。

 天の政府の基礎となる律法を倒れないようにするために、御父と御子との会議があった。律法の性質である「義と憐れみ」そのどちら一方も倒さずに両立されなければならない。アダムの罪は確実に刑罰を受けなければならないのと同時に、アダムには救いの道が提供されなければならない。これがどのようにしたら可能であろうか!このことのために天では会議が開かれ、聖書にはこれを「平和の一致」と記録している(ゼカリヤ6:13参考)。

 「神秘的な交わりは長く続いた。それは、堕落した人間の子らのための『平和の一致』であった(ゼカリヤ 6:13)。」

・・・2章に続く
















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