「わたしたちの体と精神とで神の栄光をあらわす」


 「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、〔神のものである〕自分のからだ〔と精神〕をもって、神の栄光をあらわしなさい。」(コリント第一6:20)


 わたしたちはわたしたちの教師であるお方について学ぶために、このお方にどのように従えばよいのであろうか。わたしたちはこのお方のみ言葉を詳しく調べることができる。そうすればこのお方の生涯と働きについてよく知るようになる。わたしたちはこのお方のみ言葉を自分の魂のための糧として受け入れるべきである。人が置かれるあらゆる領域の中で、主イエスはご自分のみ足の跡を残しておられる。わたしたちはこのお方に従うのが賢明である。主イエスは御霊によって話されたが、その御霊をわたしたちは大切にすべきである。わたしたちは、イエスの内にあるがままの真理を表さなければならない。特に純潔な心と愛をもってこのお方に従わなければならない。自己がキリストと共に神の内に隠れなければならない。そうすればわたしたちの命であるキリストが現れるとき、わたしたちもこのお方と共に栄光のうちに現れるのである。……
 神の御霊の霊感によって、使徒パウロは、飲食という自然の行為においてすら「何事をするにも」ゆがんだ食欲を満足させるのではなく、「すべて神の栄光のためにす」るという責任感のもとに行動すべきであると書いている。心身ともにあらゆる部分が守られねばならない。胃の中に取り込まれたものが、心から気高く聖なる思いを追い払うようなことにならないよう用心しなければならない。
 神が制定された律法に、自分たちの習慣をすべて順応させつつ賢明に食する必要があることを、わたしたちが彼らの前に提示する時、あたかもわたしたちが彼らから大きな益を奪おうとしているかのように、「わたしは自分自身を喜ばせるようなことをしてはならないのだろうか」と尋ねる人がある。
 個人個人に属する権利がある。わたしたちには自分自身のものである個性と独自性がある。だれも自分の独自性を他の人のそれに埋もれさせることはできない。すべての人が自分の良心の指示に従って、自分自身のために行動しなければならない。わたしたちの責任と感化力については、わたしたちは神から自分たちの生命を得ているのだから、神に対しての義務がある。わたしたちはこのことを人間からではなく、ただ神からのみ得るのである。わたしたちは創造と贖いによって神のものである。わたしたちの身体そのものは、わたしたち自身のものではなく、自分がしたいと思うように扱ったり、神に完全な奉仕をするのを不可能にするような、健康を衰えさせる習慣によって身体を損なったりしてはならない。わたしたちの生命と能力は神に属しており、神が毎瞬間わたしたちを支えて下さっている。神は、生ける機械である身体を活動させ続けておられ、一瞬間といえどもその作動がわたしたちに任されるなら、わたしたちは死んでしまう。わたしたちは完全に神に依存しているのである。
 わたしたちが神に対する自分の関係、また自分に対する神の関係を理解する時、大きな教訓を学ぶ。「あなたがたは知らないのか。……あなたがたは……自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」というみ言葉が記憶の壁にかかっているようにしなさい。それはわたしたちの才能と財産、また感化力とわたしたち個人個人に対する神の権利を、わたしたちが絶えず認識することができるためである。わたしたちは神のこの賜物を思いと魂と身体でどのように取り扱うかを学ばなければならない。それはキリストが代価を払って買いとられたこのお方の所有物として、わたしたちがこのお方に健康的な満足のいく奉仕をすることができるためである。(特別な証AシリーズNo.9. 58, 59)

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