「わたしたちは天の原則を表すべき」

 「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。」(コリント第二6:17)


 自称キリスト者たちが、毎年、無用で有害な道楽のために莫大な額を消費している一方で、魂は生命の言葉が与えられずに滅びている。彼らは、什一や献金において神のものを盗み、貧しい人々の救援や福音の支持に与えるよりもっと多くのものを、破滅的な欲望の祭壇で焼き尽くしている。もしも、キリストの弟子であると公言する者がみな、真に清められるならば、彼らの財産は、無用で有害な道楽のために費やされるかわりに、主の金庫におさめられ、キリスト者は、節制と克己と自己犠牲の模範となるであろう。そのとき彼らは、世の光となるのである。
 世界は、あげて放縦に陥っている。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」が大多数の人々を支配している。しかし、キリストの弟子たちは、より聖なる召しを受けている。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。」神の言葉に照らしてみても、邪悪な習慣や世俗の欲望の満足を全く放棄しない清めは真実のものでないという、われわれの主張は正しい。
 「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、……そして、汚れたものに触れてはならない」という条件に従うものに、神は、「わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」と約束なさるのである(コリント第二6:17, 18)。神の事柄において豊富な体験を持つことは、すべてのキリスト者の特権であり義務である。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」とイエスは言われた(ヨハネ8:12)。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)。信仰と服従は、一歩ごとに、「少しの暗いところもない」世の光に、魂を密接に結びつける。義の太陽の輝く光線が、神のしもべたちの上に照り輝く。そして彼らは、その光を反射しなければならない。ちょうど天空の星が、天には大いなる光があって、その栄光によって自分たちは輝いているのだということを、われわれに告げているように、キリスト者は、自分たちが賛美し、倣うべき品性をお持ちの神が、宇宙の王座におられるということを、あらわさなければならない。神の霊の恵み、神の品性の純潔と聖潔とが、神の証人たちによってあらわされるのである。(各時代の大争闘下巻204〜206)
 この世におけるわたしたちの働きが天で流れている純潔な原則をあらわすべきである。(上を仰いで291)

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