「クリスチャンの美徳の真の標準」

 「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである。」(ペテロ第一1:15, 16)


 すべてのご自分の民が生涯を通じて向上すること、また彼らが自分たちのあらゆる目的において、クリスチャンの原則と正しい経験によって導かれ、支配されることが、神のご計画である。しかし多くの者が生涯の真の目的を理解することに失敗している。そして心に抱く過ちの影響の下で、彼らは価値ある命のあるものをことごとく犠牲にしているのである。真の人物とは、他人の益のために喜んで自分の利益を犠牲にし、自分を忘れて他人の幸福のために奉仕する人である。
 知性は、富や肉体的な力よりも強力な力である。もし神の御霊によって聖化され、支配されるならば、知性は善のために強力な感化を及ぼすことができる。しかし、神の標準によれば、知性だけが人物を作るのではない。悪の手下となるとき、偉大な知性はその持ち主とその感化力の及ぶ範囲にいる人々にとってのろいである。
 真の人物であるかどうかは、神が彼にお与えになった力の用い方によって判断されなければならない。バイロン卿には、並外れた知性があった。しかし、彼は神の基準によれば、人ではなかった。……この人は、この世で傑出した人であった。しかし、主は彼を単に神から授かったタラントを悪用した者としかみなされない。神が非凡な知力をお授けになり、世が偉大な人物だと称する他の多くの人々は、サタンの旗の下に結集し、神の賜物を真理の曲解と人間の魂の破滅のために用いたのである。……
 このような人々の生涯とは対照的なのが、マルチン・ルターの生涯である。彼は王子として生まれたのではなかった。彼は王衣をまとってはいなかった。修道院の独房から彼の声が聞かれ、彼の感化力が感じられた。彼には、精力的な知性と同様に、高尚で寛大な心があった。そして彼の全能力は、人類の善のために働いたのであった。彼は真理と義のために勇敢に立った。そして自分の人類同胞の益のために、世の反対に立ち向かったのであった。
 人類を祝福するのは、霊的な生涯である。もし人が神と調和しているならば、彼は力を求めて、このお方に絶えずより頼むのである。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。いつも神の御旨に一致するために奮闘し、地上で始まった努力は永遠にわたって続けられるのだということを覚え、クリスチャン品性の完全を目指して絶えず推し進むことがわたしたちの生涯の働きとなるべきである。神は人類家族の前に高尚な標準を掲げてこられた。そして神が自分に与えてくださった人間性に忠実である人は、この世の生涯において自分の同胞である被造物の幸福を促進するばかりではなく、彼らが来るべき生涯において永遠の報いを得ることができるように助けるのである。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1886年6月17日)

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