「礼拝において神の案内書を研究する」

 「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。」(テモテ第二2:15)


 聖書は子供を取り扱う上の指導書です。親がもし望むなら、この中には子供が何の過ちも犯さないように、子供たちの教育と訓練のために設けられた教育の課程を見いだすことができます。……この指導書に従えば、両親は子供を無制限に甘やかすことなく、もっとしばしばこらしめのむちを用います。親は彼らの過失や強情な気性に盲目で、彼らの長所だけを見ることなく、明確な識別力をもって、これらのものを聖書の光に照らして見るのです。彼らは子供たちを正しい方法で制御しなくてはならないことを知ります。(家庭の教育265)
 神のみ言葉は、正しい生活習慣の形成のための全般的な原則に富んでいる。そして、全般的なあるいは個人的な証は、彼らの注意をもっと特別にこれらの原則に払うようにと意図されている。(教会への証4巻323)
 聖書研究に対する興味を起こし、これを高めることができるかどうかは礼拝の時間の用い方で大いに左右される。朝夕の礼拝は、一日の中で最も楽しくまた最も有益なひとときでなければならない。礼拝の時には心配ごとや不親切な思いに妨げられてはならないということや、イエスと会うためにまた聖天使たちを家の中に迎えるために親子が集まっているのだということを理解しなければならない。礼拝は、簡単で活気に満ち、折にかない、時々変化のあるものでなければならない。聖書研究にはみんなが加わり、神の律法を学んで幾度もこれをくりかえさなければならない。子供たちに聖書の読む箇所をえらばせると、彼らの興味が増すであろう。読んだところを子供たちに質問し、また子供たちに質問させるとよい。その意味をわからせるのに役立つような例を話して聞かせるがよい。礼拝がこのようにあまり長くならなければ、子供たちにも祈りをさせ、一節でもいいからいっしょに讃美歌をうたうとよい。……
 親は毎日子供たちといっしょに聖書を研究する時間を持つべきである。これを実行するためには、努力と計画とある程度の犠牲がたしかに必要であるが、しかしその努力は十分に報いられるであろう。
 神の戒めを教える準備として、神は、その戒めを心にたくわえておくように親たちにお命じになっている。「これらの言葉をあなたの心に留め、努めて……これについて語らなければならない。」と、神は仰せになっている。子供たちに聖書への興味を持たせるためには、われわれ自身が興味をもたなければならない。子供たちが聖書研究を好きになるようにさせるには、まずわれわれが好きにならなければならない。……
 われわれは神のみ言葉の命ずるすべてのことに従わなければならない。神のみ言葉によって約束されているすべてのものをわれわれは自分のものとして要求することができる。(教育221〜224)

よろしくお願いいたします。

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