救いの7千年史 第2章 「代々にわたってこの世から隠されてきた御言葉の奥義」


平和の一致―福音の宣言



 御父と御子の間にあった「平和の一致」の結果、「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていた(コロサイ1:26)」秘密を公開された。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)。これを「福音の宣言」という。罪を犯した人類に代わって「女のすえ」すなわち創造主であられ律法の制定者であられる神の御子が死なれることで人類が救われるという宣言である。

 「キリストが、贖罪の計画を示されたとき、天使たちは、喜ぶことができなかった。というのは、人間の救いのために、彼らの愛する司令官が言葉に表わせない苦悩をなめなければならないことを知ったからである。キリストが、天の純潔と平和、歓喜と栄光、そして、永遠の命を去って地に下り、堕落した人々と接し、悲しみと恥と死を経験しなければならないことを語られたとき、天使たちは、悲しみと驚きをもって彼の言葉に耳を傾けた。キリストは、罪人の仲保者として、罪の罰をお受けになるのであった。それにもかかわらず、彼を神の子として受け入れるものはわずかであった。彼は、天の王としての高い地位を捨て、人間として地上にあらわれて、自分を低くし、人間が耐えなければならない悲しみと誘惑を、経験によってお知りになるのであった。これは、みな、彼が試みられている者を助けるために必要であった(ヘブル 2:18参照)。キリストは、教師としての任務を終えたあとで、悪者どもの手に渡されて、彼らがサタンにそそのかされて行うあらゆる侮辱と苦痛を受けなければならなかった。彼はとがある罪人として天と地の間にあげられ、最も残酷な死をとげなければならなかった。彼は、天使たちが、見るにたえかねて、顔をかくすほどの恐ろしい苦痛を長時間味わわなければならなかった。彼は律法を犯した罪、すなわち全世界の罪の重荷を背負うとともに、魂の苦悩と父のみ顔が隠されることにも耐えなければならなかった。」人類のあけぼの54〜55ページ

 神の御子が罪を犯したアダム(人類)に代わって死なれるという宣告が発表されたときサタンは驚いた。創造主であられ万物を統治される創造主が、砂のかけらのような小さな星の人々の罪のために死なれるということをサタンは想像することができなかった。

 神の一人子は「創造前に死なれた小羊(黙示録13:8旧訳)」であった。この計画は人類がまだ創造される前に立てられた計画であり秘密であった。しかし人類が罪を犯したときすぐにこの秘密は公開され、公表された。この秘密は全ての被造物やサタンも知らなかった秘密だったのである。

 カルバリーの十字架は神の律法の要求が満たされ、哀れみと義が会ったところである。聖天使や罪のない宇宙の住民も成し得ず、ただ創造主だけが成し遂げることができる律法の要求が十字架で成し遂げられたのである。

 「食べると、きっと死ぬであろう」と言われたみ言葉は不変であられる神のみ言葉であった。アダムはこのような神のみ言葉によって死を宣告されたのである。それだから神のみ言葉と同等な方だけがアダムの死に代わることが出来、また彼を救うことができるのである。

 カルバリーの山上に立てられた十字架で神の律法の義(罪を犯した魂は死ぬであろう)が満足させられたので、神の憐れみはアダムを救うことができたのである。偽りの父であり、訴える者であるサタンも神を非難することができない。なぜならこの救いの計画は法的にも道徳的にも全く欠点のない完全なものだったからである。
 
 「ああ、贖罪はなんと神秘なものであろうか。神を愛さなかった世界を、神はどんなに愛されたことであろう。『人知をはるかに越えた』その愛の深さをだれが知ることができるだろうか。永遠の命を与えられた人々は、このはかり知れない愛の奥義を、永遠にわたってさぐり求めて、驚き賛美するのである。」人類のあけぼの上巻54ページ



サタンの協労者



 アダムは「食べると、きっと死ぬであろう」という神の宣告を思い出したが、エバと運命を一緒にすることを決意し、その果実を急いで食べた。彼は自分の死をもって罪の支払いをしようと考えた。

 それだから彼は罪を犯した後、特別な罪悪感や神に対する過ちを認めようとしなかった。今日も多くの人々がアダムと同じ考えを持っている。自分の死によって全てのことが解決できるかのように勘違いしている。それで彼らは罪を犯すことに大胆になり、罪意識を持たずに生きていくのである。

 しかし罪を犯した魂が必ず知るべきことは、自らの死によって罪は解決されないという事実である。それなのに全ての人たちはサタンに欺かれて、このような思想を持つようになった。アダムは完全に欺かれたので彼の考えはサタンの思想と一致するようになった。

 アダムが罪を犯した後、神はアダムを訪れ「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9〜14)と言われた。アダムは「わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」と答えた。すると神は「食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」と言われた。アダムは「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と答えた。

 神はエバに言われた。「あなたは、なんということをしたのです。」エバは「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えた。このアダムとエバの言葉に注意してみると、彼らは完全にサタンの協力者になってしまったという事実を知ることができる。サタンは自分の反逆を神の律法の欠陥のせいだと主張したが、アダムとエバも同じサタンの精神で一致したのがわかる。アダムは自分の罪をエバに、エバは自分の罪を蛇に転嫁した。それならば蛇は誰が造られたのか?神である。だから罪は神が責任を負わなければならないというのが彼らの結論である。全ての問題の原因は神にあったということになる。これは、律法に欠陥があるというサタンの主張と同じ思想である。サタンはアダムを自分の証人としたという事実をわたしたちは認めることができるのである。

 「アダムは、自分の罪を否定し、言いわけをすることもできなかった。彼は、悔い改めの精神をあらわす代わりに、彼の妻を非難し、ひいては、神ご自身の責任にした。『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』(同・3:12)。エバを愛するがために、神に喜ばれることも、楽園の彼の家も歓喜に満ちた永遠の命をも捨てた彼が、罪を犯した今は、罪の責任を妻ばかりでなく、創造主ご自身にまで負わせようとした。罪の力は、これほどに恐ろしいのである。」人類のあけぼの上巻46ページ



救いの計画




 神は自分の罪を認めずに言い訳をするアダムを叱責せずに、善悪の大争闘と救いの計画を示してくださった。罪によって死ぬ覚悟ができていたアダムは自分の罪の責任を自分の死によって果たすことができると考えていたので、罪悪感がなかった。このように罪によって石のように固くなったアダムに主は天使をおくられて、アダムに代わって神の御子が死なれるという救いの計画を示された。

 「天使たちは、われわれの祖先に、人間の救いのために考え出された計画をさらにくわしく教えた。アダムとエバは、大きな罪を犯したにもかかわらず、サタンのなすがままに放任されてはいないという保証が与えられた。神のみ子が、彼らの罪を贖うために、ご自身のいのちを提供されたのである。」人類のあけぼの上巻58ページ

 この事実をアダムは知らなかった。アダムは自分の罪は自分の死によって終わるのではなく、神の一人子が死なれることによって解決されるという事実をようやく悟り、恐怖に圧倒された。自分の犯罪行為は創造主の死をもたらすのだから、その罪は全宇宙よりももっと大きな罪であるということを悟った。彼はようやく自分の罪が許されるこのできない凶悪なものであることを悟ったのである。

 アダムは、自分の罪は自分が死ねば解決されるはずなのに、なぜキリストが死なれなければならないのかと思った。今日多くの人々がこの問題に対する真実を悟ったらアダムのように悔い改めるようになるのではないだろうか?

 「アダムとエバの罪が要求した犠牲は、神の律法の神聖な性質を、彼らに明らかに示した。そして、彼らは、これまで感じたこともないほどに、罪と罪の悲惨な結果とを知った。彼らは、後悔と苦悶のうちに、その刑罰が、彼の上に負わせられないように嘆願した。彼の愛こそ彼らのすべての喜びの源であった。むしろ、その罰が彼らと彼らの子孫の上にくだることを願った。」人類のあけぼの上巻59ページ

 アダムは自分の喜びの源であられた神の御子が自分の罪のよって死なれなければならないという事実を悟った後、泣きながら「神の御子は死なずに。わたしとわたしの子孫が死ぬことでそのお方の死を撤回してもらいたい」と哀願した。しかしすでに罪は犯され、ただ神の御子の死だけが罪を解決することのできるということをアダムは知るようになった。

 「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。…神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった。」人類のあけぼの上巻61〜62ページ

 神とサタンとの律法の戦いは全宇宙の関心事であり、アダムの罪はサタンの主張を擁護し、神の政府に困窮を与えたのである。それだから救いの計画は人間の救済以上のもっと広く深い目的を持っている。すなわち神の愛の律法は完全であり全く欠陥がないという事実が全宇宙に現され、証明されなければならないのである。

 神の品性の写しである律法の完全さを証明される方は、神の御子であられるキリストの外にはなかった。罪を犯したアダムの子孫たちは律法に縛られたので、決して神の義なる律法を守ることができなくなった。であるから、キリストは単に人間の救いだけのために死なれたのではなく、人類の罪によって誤解されるようになった神の律法、すなわち神の品性を擁護なさるために人間としてこの世に来られ、十字架で死なれたのである。



着せられた義―皮の着物



 神の無限の憐れみと愛はアダムを絶望と死の内に捨てておくことができなかった。アダムが受けなければならない苦痛と死をキリストが受けられることで、アダムに神の憐れみを受けることのできる道を作ろうとしてくださった。

 アダムはこの時から自分の罪に対する言い訳や許しを求めなかった。ただひたすら神の憐れみに自分の運命を託し、許されないはずの罪人に憐れみを施された神の愛に感激するだけだった。

 神はアダムに将来のすべての事を示してくださった。彼の子孫たちの堕落とノアの洪水、そしてこの地に人間の肉体をとって誕生されるキリスト、そしてついにアダムの罪によって十字架につけられる神の御子イエス・キリストの姿をアダムは見た。

 「こうして、エデンで神の宣告が与えられたときから、洪水のときまでと、そして、神のみ子の初臨までの歴史上の重大なできごとがアダムに示された。キリストの犠牲は全世界を救う価値が十分あるにもかかわらず、多くの者は罪の生活を選んで、悔い改めず、従わないことを彼は示された。」人類のあけぼの60ページ

 「アダムにとって、最初の犠牲を捧げることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。彼が死を見たのはこれが最初であった。もし彼が神に服従していたならば、人間も獣も死ぬことはなかったことを悟った。彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼に示した。罪を犯した者を救うために、そのような犠牲をお与えになる無限の恵みに彼は驚いた。」人類のあけぼの61ページ

 アダムは一匹の小羊を無理やり連れてきて、その愛らしい羊の首を刃物で刺さなければならなかった。地を流しながら死んでいく小羊を見ながら自分の罪に対する言うことのできない後悔と痛恨の思いで神のみ前に頭を下げた。

 これがすなわち「信仰による義」である。アダムに何の功績があるのだろうか?彼には何の功績もない。ただ彼は自分が許されない罪人であるという事実と自分の罪によって神の一人子が死なれるということを信じただけである。それだから彼は罪のない小羊を殺したのである。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)まさにこれこそが福音である。神を愛さない全ての人類に与えられた神の愛は人類が理解できない神秘である。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)。



善悪の大争闘―次のステップ



 天におけるキリストとサタンとの律法の戦いはキリストの勝利で終わった。サタンは天に自分の居る場所を失い、この地に追い出されたのであった。しかしこの地で彼はアダムを屈服させるのに成功し、人間という代理者を利用して神に敵対しつつ、この世を永遠に自分の王国にしようとした。

 しかし神は「時の満ちるに及んで、神は御子を…おつかわしになった。」キリストはアダムが失ったこの世の統治権を取り戻すために来られるのであった。その方は神としての特権を捨てられて人性を取られてこの世に来られるのであった。アダムの罪によって破れた神の律法を完全に回復するためにキリストはこの世に来なければならなかった。また罪のうちに堕ちた人類を救うためにこのお方は死なれなければならなかった。

 サタンは神の御子が人間の肉体を取られてこの地に来られるという事実を知って喜んだ。なぜなら罪のない人性を持っていたアダムを簡単に屈服させた彼の経験から考えても、キリストが罪のある人性を取られてこの地にいらっしゃるなら彼は簡単にキリストを屈服させることができると考えたからである。

 「イエスが力と栄光をすてて天を去られた時、サタンはこおどりして喜んだ。彼はその時、神のみ子が自分の勢力の下におかれたと思った。彼はエデンの聖なる夫婦をたやすく誘惑することができたので、その悪魔的な能力とずるさによって、神のみ子まで倒して、自分の生命と王国を救いたいと望んだ。」初代文集271ページ

 「サタンは、神の律法が不公正で従うことのできないものであるという証拠として、アダムの罪を指摘していた。キリストは、われわれの人性をもって、アダムの失敗をあがなわれるのであった。」各時代の希望上巻124ページ

 なぜイエスは栄光を捨て、人間にならなければならなかったのだろうか?サタンは神の律法が服従できない証拠としてアダムの罪を主張した。しかしイエスはこの世に来られ神の律法は服従することのできる律法であるという事実を証しなければならなかった。もしキリストが神性によって律法を守るのなら、それは決して完全な証にはなることができないであろう。この方はかならず人性をとられ、人として神の律法に完全に服従することによってのみ完全な証となれるのであった。それだからイエスは「時の満ちるに及んで、…女から生れ」たのである。



私達と同じ肉を取られた



 「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、…」(ヘブル2:14)

 「アダムが誘惑者から攻撃された時には、彼には罪の影響がすこしもなかった。彼は完全な人間としての力をもっていて、心もからだも活力に満ちていた。彼はエデンの栄光にとりかこまれ、天使たちと毎日交わっていた。イエスがサタンと争うために荒野へ入って行かれた時には、アダムの時のようではなかった。4000年間にわたって、人類は体力も知力も道徳価値も低下していた。しかもキリストは退歩した人類の弱さを身につけられた。こうすることによってのみキリストは人類を堕落の一番深い底から救うことがおできになるのであった。

 キリストが試みに負けることは不可能だったのだと主張する人が多い。もしそうなら、キリストはアダムの立場に置かれることはできなかったし、アダムが得られなかった勝利を得ることもおできにならなかったであろう。もしわれわれが何らかの意味でキリストよりもきびしい戦いをたたかわねばならないとしたら、キリストはわれわれを救うことがおできにならないであろう。だが救い主は、罪の負債ごと人性をおとりになった。彼は試みに負ける可能性のまま人間の性質をおとりになった。キリストが耐えられなかったことで、われわれの耐えねばならないことは何ひとつない。」各時代の希望上巻124〜125ページ

 わたしたちの主はアダムより遥かに不利な立場を取ってこの世に来られた。彼はアダムが失敗したその時点から始めるために来られた。また罪によって退化した人類の肉体を取られ、サタンのすべての試みに勝利することによって、人類が罪からの勝利の生涯を生きることのできる望みをくださるのであった

 そのお方はわたしたちを罪から救いたいと切望される。罪から救われるということは、すなわちわたしたちが罪のない生涯を生きるようにされるということであり、罪がわたしたちの生涯で終わるときその目的は成就されるのである。罪はすなわち不法である。罪に勝利し、罪のない生涯を生きるということは律法に完全に従うということである。

 サタンは人類が神の律法に完全に従うことは不可能だと主張した。キリストはこの主張が偽りであるという事実を証明するために人となられて、神の律法に完全に従わなければならなかった。そうすることによって彼を信じるすべての者たちが律法に完全に服従し、罪のない生涯が可能であるということを証明することによって、サタンの欺瞞が全宇宙に暴露されるのである。そのときに初めて罪が消滅され、サタンを永遠の火によって裁くことが可能になるのである。
であるからわたしたちは、キリストがわたしたちと全く同じ人性を取られたということを信じなければならない。彼が服従し、罪のない生涯を生きて勝利されたように、わたしたちもキリストのような勝利の生涯を生きることができるという事実を感謝しなければならないのである。

 「・・・アダムがエデンで罪を知らなかった時でさえ、神のみ子が人の性質をおとりになることは無限の屈辱に近かった。ところがイエスは、人類が四千年にわたる罪によって弱くなっていた時に人性をおとりになったのである。アダムのすべての子らと同じように、イエスは遺伝という大法則の作用の結果をお受けになった。そのような結果がどういうものであるかは、イエスのこの世の先祖たちの歴史に示されている。主は、われわれの苦悩と試みにあずかり、罪のない生活の模範をわれわれに示すために、このような遺伝をもっておいでになったのである。」各時代の希望上巻35ページ



わたしたちもキリストのように



 「信仰とは、望んでいる事がらを確信」することである(ヘブル11:1)。わたしたちが何を願い望むものかということはとても重要である。なぜなら信仰は望んでいる事がらを実現してくださると言われたからである。わたしたちが何を望むのか?キリストの罪のない生涯、悪魔に勝利した生涯こそが私達の望むべき事がらではないだろうか。

 信仰はこのような望みを達成させるものである。多くの人たちはキリストのような罪のない生涯を生きるということは不可能だと考える。しかしこれは誤りであり、救いの計画をまったく知らないという証拠である。彼らはサタンの欺瞞にだまされている。ヨハネは次のように言った。

 「すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、」(ヨハネ第一4:2)。

 このみ言葉を見ると、もしわたしたちが罪のない生涯を生きることが不可能なら、キリストが肉体をとってこられたことを否認する結果になる。なぜなら聖書はイエスが肉体をとって来られて、罪のない生涯を生きられたと記録しているからである。

 多くの人たちが彼は神の御子だったので、罪のない生涯が可能だったと言う。しかし聖書は次のように記録している。「わたしは、自分からは何事もすることができない。」(ヨハネ5:30)。この方は自分からは何事もすることができないと宣言された。それならこの方はわたしたちと同じ立場におられたということを疑う余地はないのである。

 「サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であると言う。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆるわざわいが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦難と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞をばくろされるのであった。イエスはわれわれ人間の一人として服従の模範を示されるのであった。このためにイエスはみずから人間の性質をとり、われわれと同じ経験をされた。『イエスは・・・・・・あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった』(ヘブル2:17 )。もしわれわれが、イエスの耐えられなかったことを耐えねばならないとしたら、サタンは、この点で、神の力はわれわれにとって十分ではないと言うだろう。そこでイエスは、『すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである』(ヘブル 4:15 )。イエスはわれわれの会うあらゆる試みに耐えられた。しかも彼はわれわれに自由に与えられていない力をご自分のためにお用いにならなかった。人間としてイエスは試みに会い、神から与えられた力で勝利された。『わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』と、主は言われる(詩篇 40:8 )。…イエスの一生は、われわれもまた神の律法に従うことができることを証明している。」各時代の希望上巻9ページ



すべてが終わった



 神の御子はすべてのことにおいて私たちの兄弟のようになられ、罪とサタンのテストに勝利された。地上での彼の生涯が終わりに近づいた時、彼はこの世のすべての人類の罪を背負われた。罪はとても凶悪なものゆえに神は御自分の御子であられてもみ顔をそむけられるしかなかった。霊感のみ言葉はそのときの状況を次のように描写している。

 「救い主は弟子たちとつれだって、ゆっくりゲッセマネの園の方へ進んで行かれた。雲のない空には過越の満月が輝いていた。旅人たちが天幕を張った町はひっそりと静まっていた。…しかし今イエスは、神のささえの臨在という光からしめ出されているようにみえた。いまイエスは「とがある者と共に数えられた」(イザヤ 53:1 2 )。堕落した人類の罪をイエスがお負いにならねばならない。罪を知らなかったお方の上にわれわれの全ての罪がおかれねばならない。罪が非常に恐るべきものに見え、イエスの負われねばならない不義の重荷があまりに大きいので、イエスは、そのため天父の愛から永遠にしめ出されるのではないかという恐れにさそわれる。罪に対する神の怒りがどんなに恐るべきものであるかを感じて、イエスは、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』と叫ばれる(マタイ 26:38 )。」各時代の希望下巻173〜174ページ

 「キリストは、罪のためにご自分が天父から隔離されつつあることを感じられた。深淵は広く、暗く、深かったので、キリストの精神はその前でおののいた。この苦悩からのがれるために、キリストは、神としての力を働かせてはならないのである。人間として、キリストは、人の罪の結果をお受けにならねばならない。人間として、キリストは、罪とがに対する神の怒りに耐えたまわねばならない。

 キリストはいま、これまでとちがった態度をとっておられた。主の苦難は、預言者ゼカリヤのことばによって最もよくえがかれている。「万軍の主は言われる、『つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ』」(ゼカリヤ 13:7 )。罪深い人間の身代りまた保証人として、キリストは神の正義の下に苦難を受けておられた。主は、正義が何であるかがおわかりになった。これまでキリストは、他人のために執り成すお方であったが、いま主はご自分のために執り成してくれる者がほしいと望まれた。」各時代の希望下巻176〜177ページ

 「キリストが、人の魂のために払われる価について思いをめぐらしておられる姿を見なさい。苦悩のあまり、主は、神から遠くへ引き離されまいとするかのように、冷たい大地にすがりつかれる。冷たい夜露がそのひれふしたお体におりるが、主は気にされない。その青ざめたくちびるから、『わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』とのいたいたしい叫びがもれる。それでもなお主は、『しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』とつけ加えられる(マタイ 26:39 )。」各時代の希望下巻178ページ

 わたしたちすべての人々は創造主、また神の御子であられるキリストの苦しみを深く考えなければならない。このお方は人類を救うためにわたしたちがだれも経験することのできなかった恐ろしい試練に会われた。もしこのお方がわたしたちと同じ人性ではなく、神性を使われたのなら、何故恐ろしい試練を受け、汗が血のように流れ落ちたのだろうか?

 わたしたちはキリストの苦しみをもっと深く考えてみよう。この方は私達と同じ人性を取られたのでこのような苦しみに会われたのだという事実を考えつつ、霊感の言葉を読んでみよう。

 「神のみ子は、十字架につけられるために、人々に引き渡された。彼らは、勝利の叫びをあげて、救い主を連れ去った。彼は、むちで打たれ、殴打されたための、疲労と苦痛と出血から、弱り衰弱しておられた。それにもかかわらず、彼がまもなく釘づけにされる重い十字架が、彼に負わせられた。イエスは、その重荷の下で気を失われた。彼の肩の上に十字架が三度ものせられ、三度とも彼は倒れられた。」初代文集298〜290ページ

 「準備はなされて、イエスは十字架の上に横たえられた。金づちと釘が運ばれてきた。弟子たちは、気を失いそうになった。イエスの母は、耐えきれない苦悩に身をかがめた。弟子たちは、救い主が十字架に釘づけにされる前に、その場から彼女を連れ出し、彼の柔らかい手と足の骨や筋肉に釘が打ちこまれる大きな音を聞かすまいとした。イエスは、つぶやかれなかったが、苦痛のあまりうめき声を出された。彼の顔は青ざめ、その顔には、大きな汗のしずくが浮かんでいた。サタンは、神のみ子の苦悩を見て狂喜したが、・・・」初代文集300ページ

 「イエスが、十字架に釘づけられたあとで、それは持ち上げられ、すでに地面に用意されてあった場所に勢いよく突き立てられたので、肉を引き裂いて、耐えがたい苦痛を与えた。イエスの死を、できるだけ屈辱的なものにするために、二人の強盗がイエスと一緒に、一人は右に、一人は左に、十字架につけられた。強盗たちは、激しく抵抗して、力ずくで押えられ、腕を広げられて十字架に釘づけられた。しかし、イエスは、おとなしく従われた。十字架の上に彼の腕をのばしておさえる者は、だれもいらなかった。強盗たちが、処刑者たちをのろっていた時に、救い主は、苦悩のなかにあっても、ご自分の敵たちのために祈り、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と言われた。キリストが耐えられたのは、単に肉体の苦痛だけではなかった。全世界の罪が、彼の上に置かれた。」初代文集300〜301ページ

 「イエスは苦悩のために、のどがかわかれた。すると、彼らは苦味をまぜた酢を彼に与えた。しかし、彼は、それをなめてみて、お飲みにならなかった。天使たちは、彼らの愛する指揮官の苦悩を見ていたが、ついに耐えられなくなって、その光景から顔をそむけた。太陽は、恐ろしい光景を見ることを拒んだ。イエスは、彼の殺害者たちの心を恐怖に陥れるような大声で、『すべてが終わった』と叫ばれた。その時、神殿の幕が、上から下まで裂けた。また、地震があり、岩が裂けた。大いなる暗黒が、地の上をおおった。イエスの死によって、弟子たちの最後の希望は消え去ったように思われた。多くの弟子たちが彼の苦難と死の光景を目撃し、彼らの悲しみの杯はあふれた。その時、サタンは、彼が前に喜んだようには喜ばなかった。」初代文集302〜303ページ

 「恐ろしい暗黒のさなかに、神に見すてられたようにみえる中にあって、キリストは人間の苦悩のさかずきを最後の一滴まで飲みほされた。その恐るべき時に、主は、ご自分が天父に受け入れられたことについて、これまで与えられていた証拠によりたのまれた。イエスは天父の性格をよく知っておられた。イエスは天父の正義、あわれみ、大きな愛をわかっておられた。父に従うことがイエスの喜びであったが、信仰によってイエスは父に信頼された。こうして、服従のうちにご自分をまったく神にまかせられた時に、天父の恩恵が失われたという意識はなくなった。信仰によってキリストは勝利者となられた。」各時代の希望下巻279ページ

 十字架上で苦しまれるキリストを眺めよう。彼は弱り果てた体でサタンに勝利された。サタンは彼に何ひとつでさえ勝利することができなかった。このお方は人と同じ肉の体で罪のない生涯を生き、勝利された。この事実は私達にとって福音である。この方の生涯と勝利は、あなたのものだからである。この方の死は彼の勝利であり、同時にまたあなたの勝利なのである。このすべてのことは信仰によって可能なのである。

 キリストは十字架で死なれたが、サタンが喜ぶことができなかった理由は、彼の死はサタンの完全な敗北を意味していたからであった。キリストが人性を取られた時、彼はキリストを誘惑し罪におとしいれることができると信じた。しかしこのお方は思いにおいてさえ、罪を犯されなかったのである。であるからキリストは彼を信じる者たちに罪のない生涯を可能にされたのである。サタンは天でもこの世でも敗北してしまった。

 サタンがキリストに勝利することのできる絶好の機会は終わってしまった。人間と同じ肉体を取られたイエスにサタンは勝利することができなかった。神はキリストの勝利によって神の律法は守ることができるものであるという完全な証拠を持たれるようになったのである。十字架によってこのすべてのことが成就されたのである。

「イエスは、ご自分がするためにおいでになった働きをなしとげ、臨終の息の下から『すべてが終った』と叫ばれた時にはじめて息を引きとられた(ヨハネ 19:3 0 )。戦いは勝利であった。イエスの右手とその聖なる腕が勝利をもたらしたのであった。征服者として、イエスは、その旗を永遠の高地にうちたてられた。天使たちの間に喜びがなかっただろうか。全天は救い主の勝利に凱歌をあげた。サタンは敗北し、彼の王国が失われたことを知った。」各時代の希望下巻282ページ

 全天と堕落していない宇宙の住民はキリストとサタンとの大争闘を眺めた。神の律法は従うことができないというサタンの欺瞞は、キリストの罪のない生涯によって完全に暴露されたのである。

 「キリストは、ご自分の一生と死によって、神の義はその憐れみを滅ぼすものではなく、罪がゆるされ、律法が正しく完全に従うことのできるものであることを証明された。サタンの非難の誤りは明らかにされた。神はご自分の愛についてまちがうことのない証拠を人類にお与えになった。」各時代の希望下巻289ページ

 キリストが十字架で死なれる前までは、宇宙の罪のない住民たちや天使たちでさえも、サタンの欺瞞を完全に理解することができなかったということを知ることができる。

 「キリストが死なれてはじめて、サタンの性格が天使たちや他世界の住民たちにはっきりわかった。大背信者は欺瞞の衣を着ていたので、聖者たちでさえ彼の原則を理解していなかった。彼らは、サタンの反逆の性質をはっきりわかっていなかった。」各時代の希望下巻282〜283ページ

 「サタンは自分の仮面が引きはがされたことを知った。彼の統治は堕落していない天使たちと天の宇宙の前に公開された。彼は殺人者の正体を現わした。神のみ子の血を流すことによって、彼は天の住民の同情をまったく失ってしまった。それからのち彼の働きは制限された。どんな態度を装おうと、彼はもはや天使たちが天の宮廷から出てくるのを待ち伏せて、キリストの兄弟たちが暗黒の衣と罪のけがれを着ていると彼らに訴えることができなくなった。サタンと天の世界との間の同情という最後のつながりがたちきられた。」各時代の希望下巻286〜287ページ

 サタンは今までキリストに対抗して戦ったが、結局キリストを十字架にくぎ付けて殺すことによって彼は完全な敗北を喫してしまったのである。

 天に続くこの世での敗北によって、サタンはアダムから奪ったこの地球の統治権を失ったのである。それだけでなく、天で反逆した後この地に追放されたが、天で会議があるときには、サタンはアダムから奪ったこの地球の代表者としての権利をもって参加し、天と地を往来しながら夜昼兄弟たちに訴える機会があった。しかしキリストが十字架に死なれることによってサタンはこの地球の代表者としての資格と同時に、天に昇っていく資格も剥奪されたのである。「その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。』」(黙示録12:10)                           …3章に続く
 


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