「失われた者たちに警告することにおいて神の御旨を行う」

 「キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」(エペソ6:6, 7) 
 昨晩、わたしの前にある光景が示された。わたしは決してそのすべてを明らかにしていいとは思わないが、少しだけ明らかにしよう。大きな火の玉が世に下ってきて、大きな家々をつぶしてしまったようであった。あちらこちらから、「主が来られた!主が来られた!」という叫びがあがった。多くの人々はこのお方に会う備えができていなかった。しかしわずかな人々は、「主をほめ讃えよ!」と言っていた。
 「なぜあなたがたは主をほめ讃えているのですか」と、自分の上に突然破滅が降りかかってきた人々が問いただした。
 「なぜなら、わたしたちは今こそ待ち望んでいたことを見るからです」。
 「もしあなたがこれらのことが起こると信じていたならば、なぜわたしたちに話してくれなかったのですか」というのが、恐ろしい返答であった。「わたしたちはこれらのことを知りませんでした。なぜあなたはわたしたちを無知のまま放っておいたのですか。何度も何度もあなたはわたしたちを見かけたでしよう。なぜあなたはわたしたちと知り合いになり、そしてわたしたちに来たるべきさばきについて、またわたしたちが神に仕えなければ、滅びてしまうということを教えてくれなかったのですか。今となっては、わたしたちは失われてしまった!」。
 すべての教会員は、知性を訓練し、自分に関する神の御旨についてはっきりとした理解力を得る事ができるようにしなければならない。すべての人が声を訓練し、無知のままでいる人々に聖書の知識を伝えられるようにしなければならない。わたしたちが、まだ恩恵期間が残されているうちに、ダニエルのように自分たちの分と場所に立つのを神が助けてくださるように。
 両親方よ、自分の子供たちに地上に起ころうとする事柄について教え、平安のうちに主にお会いする準備を彼らにさせるよう導きなさい。聖書の知識を得なさい。頭を小説の無意味な言葉でいっぱいにしてはならない。真理をはっきりと把握し、それによって真理を他人に知的に教えられるように望む人々に脳神経の力が要求されている。わたしたちは、少しも脳の力がありすぎるということはない。わたしたちには決して煙草や、あるいはアルコール飲料、またその他の害のあるものを用いる余裕はない。なぜなら、わたしたちは魂を救う働きのために、自分たちの思いをはっきりと保つよう努力しなければならないからである。主はご自分の奉仕において、熱烈な真剣さを表す人々をお喜びになる。すべての人にとって、神の与えてくださったすべての力を忠実に培うのが特権である。
 その喜びの日に……贖われた人々は、「ほふられたが、また生きておられる小羊、勝利に満ちた勝利者であられるお方こそ、ふさわしい、ふさわしい」と叫ぶ。そのとき、働き人が震えながら恐れつつ自分が語りかけた人々、――自分が聖書を開いてみせ、共に祈り、こうして彼らの魂をはかりの正しい側においてあげた人々のところへ行くとき、何という喜びを感じることであろう。……神のみ摂理はすべて、そのとき明らかにされる。(原稿102, 1904年)


よろしくお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村