「生ける石、すばらしい光によって輝く」

 「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。……あなたがたも、それぞれ生ける石となって、……イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえをささげなさい。」(ペテロ第一2:4, 5)

 神の聖なる働きが、何年も積み上げられてきたあらゆるごみから清められるとき、神の御名はあなたがたのただ中で栄光を受ける。聖霊が人間を支配なさるとき、これまで行われてきた不正の仕事は何一つ行われなくなる。すべての人が理解すべき働き方、すなわち正直、誠実、そしてやる気が見られるようになる。働き人たちの品性が純潔で堅実な材木で建てられるようになる。取引きにおける実直さが、すべての神の戒めを守る民の中で見られるようになる。織物のすべての糸が主によって編み出されたものとなり、おのおの働き人は模様を作りあげるのに助けとなるために、自分の糸をその織物に織り込む。その模様は偉大な織機から、完全なデザインで織り出されるのである。
 3000年前、ダビデは「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません」と問うた。すでに不純である魂は、清められ、純潔にされ、聖化される必要がある。そのとき、次の証を担うことができる。「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストのみ顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである」。 
 この世で、わたしたちはよいわざにおいて輝かなければならない。主は、聖なる事柄を扱っているご自分の民が、神とだけ共におり、あらゆる仕事上の取引きにおいて天の原則を反映させ、またキリストが反映なさったように神のご品性、神の愛を反映するようにと要求しておられる。[わたしたちが]イエスを[眺めるとき]、わたしたちの生活のすべてが、すばらしい光で輝くようになる。わたしたちのあらゆる部分が光とならなければならない。そのとき、わたしたちがどちらを向いても、わたしたちから光が他の人々へと反射するのである。……
 御霊の実、これはいったい何であろうか。陰鬱、悲しみ、嘆き、あるいは涙であろうか?否、そうではない。御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、信仰、柔和、自制である。神の宮を構成する一助となる一つ一つの石のうちに、これらの恵みが見られるようになる。どの石も寸法や形が同じものはなく、一つ一つの石に宮の中の位置がある。
 宮の中では、一つとして形のゆがんだものはない。各々完全であり、また多様性の中に、一致があって欠けるところのない完全さをなしている。一つ確かなことは、どの石も生きた石であり、光を放つ石であるということである。今は世という石切り場から石が切り出されて、神の作業場に持ち込まれ、彼らが輝くことができるように、切り刻み、四角にされ、また磨かれるべきときである。(ロイヤリティーに関する特別な指示20, 21)

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Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net


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