「高尚な品性を築くレンガ」

  「自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(コリント第一13:〜7)


 快活で親切で育ちのよいクリスチャンには、神とこのお方の真理のために働く感化力がある。そうでなければ、それはあり得ない。天から取り入れた光が、彼らを通してその明るくする光線を他人の道筋に降り注ぎ、彼らを導いて、「万軍の主よ、その力があなたのうちにある人は幸いです」と叫ぶようになるのである。
 わたしたちが語る言葉、わたしたちの日常のふるまいは、木に成長する実である。もし実がすっぱく、口に合わないようなものだとすれば、その木の小根は、純潔な源から栄養を吸っていないのである。もしわたしたちの品性が柔和でへりくだっているなら、もしわたしたちの愛情がわたしたちの救い主と調和しているなら、わたしたちは自分たちの命がキリストと共に神のうちに隠されていることを表す。そしてわたしたちは、自分たちの背後に明るい足跡を残すのである。わたしたちの生活が不信者たちの生活とは著しい対照をなしているので、そのためにわたしたちと交わる人々はわたしたちがイエスと共にいて、このお方から学んだのだということがわかるようになる。
 クリスチャンは隠遁者になる必要はない。しかし世と交わる必要がある一方で、彼は世のものとはならないのである。クリスチャンの礼儀正しさが培われ、また日毎にそれを実行するべきである。不親切な言葉は語らずにおくべきである。思いやり深い同情が、他人の幸せに対する利己的な無関心に取って代わるべきである。真の礼儀は真理と正義と混ぜ合わされて、生活を有益なものとするばかりでなく、美しく、愛とよいわざに香るものとする。……
 徳、正直、親切、また忠実な高潔さは高尚な品性を作る。これらの特性を持っている人々は、不信者たちからでさえ、評価を勝ち得る。そして、教会における彼らの感化力は、非常に尊いものとなる。わたしたちは重要な事柄において正しくあるようにと要求されている。しかし、小事における忠実さはより高い信任の地位にわたしたちをふさわしいものとするのである。
 多くの人の場合、真の礼儀が大いに欠落している。多くのことが父祖たちの時代以来、進歩してきたと言われている。しかし、その時代に生きていた人々は、精錬さとマナーにおける真の礼儀正しさが、啓発されていることを誇っているこの時代の人々よりも高い状態にあることを、誇ることができるのである。高潔さ、正義、そしてクリスチャンの親切が混ぜ合わされると美しいコンビネーションとなる。礼儀正しさは、御霊の恵みの一つである。それは天の特性である。
 御使は決して感情に走ることはないし、決してねたむことも、利己的になることも、嫉妬することもない。彼らの唇から、厳しく不親切な言葉が漏れることもない。そしてもしわたしたちが御使たちの仲間となりたいならば、わたしたちも精錬され、礼儀正しくならなければならない。クリスチャンはたやすくいらだたない愛、寛容であり、情け深く、すべてを望み、すべてを耐える愛を培うのである。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888年11月11日)


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