ダニエル書講解20「栄華の宮もあわれ獣の巣窟」


 バビロンについての学びを終える前に、その後のバビロンの陰惨な歴史の終結を見てみよう。勝利者がこのような高貴な、また世界のすべてのものにはるか優れた都の所有者となったとすれば、必ず彼の帝国を首府として、その最初の壮麗さを保存すべきことは当然である。しかし神は、・・・「野の獣がそこに伏し、ほえる獣がその家に満ち、だちょうがそこに住み、鬼神がそこに踊る。ハイエナはその城の中で鳴き、山犬は楽しい宮殿でほえる。・・・」と言われた。(イザヤ13:19〜22参照)であるからバビロンは必ず廃墟とならなければならなかった。クロス王はバビロンの東方、チグリスの支流チヨアスピス湖畔のエラム州における有名な都市スサに遷都したが、歴史家ブリドーによれば、この遷都はクロス王の単独治世の第一年に行われたらしい。このためにバビロン人は大いに怒り、ダリヨス・ヒスパスタスの5年、すなわち紀元前517年に反乱を起こした。そのためにバビロンは再びペルシャ軍の総攻撃を受け、またも戦略をもって陥れられた。しかしその戦略とは何か?古代歴史家の記録によれば、ダリヨスの部下の一司令官ゾビラスは自ら己の耳と鼻を切断し全身を鞭打ち、目も当てられぬ程の傷をつくり、包囲されたバビロンの軍中にそのような状態で逃げ入り、一見彼をこのような不具者にしたダリヨスの大残虐に対して復讐を熱望しているかのように見せかけた。ソビラスはバビロン人の油断をみすまして都城をダリヨスの手に裏切った。そしてダリヨスはバビロン人が今後決して謀反しないようにと、反逆にあずかった力ある者たち3千人を殺し、市の銅門を撤去し200キュピトの城壁を50キュピトに低くしてしまった。これは実にバビロン市破壊の手始めであって、この行為は後世バビロンに敵する全ての徒党をおもうぞんぶん蹂躙させる一因となったのである。ザークセスはギリシャから帰るなり、ベル・マーダク神殿の無限の富を奪い、その荘厳な殿堂を破壊してしまった。またアリキサンダー大王はバビロン再建を企て、1万人を2ヵ月間使役して残骸を片付けさせたが、彼は暴飲暴食の結果死んだため、この事業は中止しなければならなかった。また紀元前294年セリウーカス・ニカーターはその隣接地に新バビロン市を興し、古都より多くの材料と住民を移して新都を建設してそこに植民させたが、今や誰ひとりそこに住む者はなく、廃頽と荒跡は深刻に古都の歴史を物語っている。ちなみにバルデヤ人の君主らの暴力がその破滅を早めたのであった。また4世紀の末にはペルシャ王は猛獣を飼育する柵としてこれを用いた。また著名な某旅行家の言葉によれば、12世紀の終わりごろには、ネブカデネザルの宮殿のわずかばかりの遺跡に蛇類その他有毒の爬虫類が充満し、大いなる危険を冒さずには精細に視察することが出来なかったとの事である。
 また預言者は「バビロンは廃墟になり、梟(ふくろう)のすみかとなる」と言っている。以下は英国の考古学者レーヤード氏が1845年に臨検して発見した状態である。
 「多種多様ながらくたが山積して数十町歩にわたっていた。・・・ガラス、大理石、陶器および彫刻された煉瓦などの破片が散在していた。・・・梟(灰色の大きな梟が100羽近くも群をなしているのをしばしば発見した)は草むらから飛び出して不潔な山犬が溝に逃げ隠れた。」(Discoveries Among Ruins of Nineveth and Babylon,21,p413参照)
 「アラビヤびともそこに天幕を張らず、・・・」と預言者イザヤは2600年前に言ったが、アラビヤ人がこの場所を避けるのは字義的に事実であり、しばらくしても天幕を張ることはないと旅行家は言っている。彼らはそこがのろわれたものと信じているのである。
 現在の状況を示し得る者は、長年バビロンの遺跡発掘の事業を監督したドイツの考古学者ロバート・コードウェル教授の右に出る者はあるまい。彼は1912年に左のごとく記した。「われわれが広大なる廃墟を眺める時に、無意識のうちに、「それゆえ、野の獣と山犬とは共にバビロンにおり、だちょうもそこに住む。しかし、いつまでもその地に住む人はなく、世々ここに住む人はない」(エレミヤ50:39)。このエレミヤの言葉を追想せざるを得ない。」と。」(The Excavations at Babylon 314p)このようにして大バビロンの廃墟は神のみ言葉の成就の正確さをすべての人に示している。


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