黙示録講解6「7つの代表的教会」


 「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。」黙示録1:4〜6

 この書は小アジアのローマ領にある七つの教会に捧げられたものである。これらの七つの教会の名は1章11節並びに第2、第3両章に示されているが、そのうちエペソ、スミルナ、ヒラデルヒヤ等の名は、読者の中にすでに耳にされた方もいるであろう。そもそも聖書においては7という数字は神聖な完全を表示する数字であるが、この7つの教会はヨハネの時代より終末時代、すなわち現代に至るまでのキリストの教会を象徴したものである。7つの教会について小アジアに関する考古学の最大権威者ウイリアム・ラムゼー卿は次のように述べている。「小アジアには7グループの教会があったが、その各グループにはいずれも顕著にして代表的な一つの教会があった。そしてこれらの7つの代表的な教会は各グループの教会を代表していた為に、各グループの教会は全キリスト教会を代表するものであった。」実にこの小アジアの教会の名称及び状態は、各時代にわたる全キリスト教会の状態を象徴したものである。

各書簡における冒頭の辞

 さてヨハネは7つの教会に書簡を送るに際して、先ず世間で言い古された言葉を用いる代わりに救い主イエス・キリストを賛美し、その恩恵を彼らの上に加わらんことを述べて挨拶の辞としている。神は常に我々に大きな恩恵を与えようとしておられるが、実に罪深い我々が最も必要とするものは神の恩恵とそれより来る平和である。戦雲みなぎるこの世界において、この約束はいかに尊いものであろう。キリストを自分の救い主として信じて受け入れる者のみが真の平和を獲得し得るのである。我々心に宿られる神の力が我々を罪より清め、悪の力に打ち勝たせるのである。真の意味において、キリストこそ我々の知恵、義、潔、贖、勝利また、神の平和となってくださるのである。キリストは我々全ての者に対してこのようになる事を願っておられる。であるから、今というこの時に信仰によってこの大真理を獲得しようではないか。
 この祝福の源泉については次の様に言われている。第1、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、」と。「永遠にいます神」全能のエホバよりも、さらに優って我々に恩恵と平和とを豊かに世に与えてくださる者が他にあるだろうか。彼は「有って有る者」である。フランス語訳聖書には、エホバの代わりに「永遠の神」という文字が用いられているが、実に彼は不変の神であられる。また彼は黙示と恩恵の神であり、その民と共に宿り、彼らを導き、かつ救い、その礼拝を受けられる方である。すなわち詩篇記者は次のように歌っているが、神を知り、これに仕える者の幸福は無限である。「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。」詩篇90:2
 第2、「7の霊」とは聖霊を代表する。しかしその聖霊は神の御座より直接神の最善の祝福をもたらす者である。第3、「イエス・キリスト」は忠実なる者、唯一の全き証人である。彼はご自身の血をもってその証を固くし、望みない罪人に対して救いの道を開いてくださったのである。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)。ちょうどキリストが磔刑に処せられる前にピラトに向かって答えられた御言葉の中にもこれと同意義の事が含まれている。(ヨハネ18:37参照)彼はまた「死人の中から最初に生れた者」であり、「眠っている者の初穂」(第一コリント15:20)である。さらにまた彼は「多くの兄弟の中で長子」(ローマ8:25)と呼ばれている。しかしこのように言うものの、彼は決して歴史上最初によみがえった者ではない。彼の時代より1500年も以前にモーセは死よりよみがえり、また後年預言者エリシャは神の代理者としてシュネム人の子供をよみがえらせた。さらにキリストもラザロやある寡婦の子供を死より生き返らせられた事などがある。しかしキリストのよみがえりこそはその卓絶たる点において最初のものであったのである。すなわち贖われて死から復活したすべての者はことごとく彼の犠牲と執り成しによるからである。彼は「地の王たちの中最も高き者」であり、彼こそは君の君、王の王、主の主、この世の至高者である。彼は全宇宙の御座に位する者の右に座し給いて(黙示録3:21参照)永遠の神に等しく、万国の民の上にその統治権と支配権とを行使されるのである。摂理の下に罪は今もなおその害毒を流すことを許されているが、それは罪の恐るべき事をよく知らせるためと、今一つは他の方法によって教訓を学ばない人々を罪から離れさせる為である。しかしそれにもかかわらずキリストの統治権を無視するすべての者は永遠に万物を失うのである。今や間もなくキリストは王の王、君の君として再臨されようとしている。ゆえにわれらは黙示録の教訓を体験し、特別の祝福に浴するとともに、3位の神、父なる神、子なるキリスト、聖霊―より恩恵と平和を豊かに受けようではないか。


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