「ダビデは困難を通して学ぶ」

 「こうしてダビデイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。」(サムエル記下8:15)

 「大いなる王の都」(詩篇48:2)エルサレムの南方、数マイル離れたところにベツレヘムがある。幼子イエスが飼い葉おけに寝かされ、東方から来た博士たちの礼拝を受けられたときから、千年以上もさかのぼった昔、ここでエッサイの子ダビデが生まれた。救い主降誕の何世紀も前に、活気に満ちた少年ダビデは、ベツレヘムのまわりの山々で、草を食べる羊の番をしていた。純朴な羊飼いの少年は、自分の作った歌をうたい、その新鮮で若々しい歌の調べに合わせてたて琴をかきならすのであった。主は、ダビデを選び、羊飼いの孤独な生活の中にあって、後年彼にゆだねようと計画された任務に対する準備をさせておられた。(人類のあけぼの下巻310)
 ダビデは少年時代からサウルと親しく交わり、宮廷で、王家の人々と接していたために、王者のきらびやかさと、はなやかさの中にかくされている苦悩や悲しみや複雑さを見ぬいていた。彼は、人間の栄誉が魂に平安を与えることには何の価値もないものであることを悟った。そして王の宮廷から牧場の羊の群れにもどったときに、彼は安心し、そして喜んだ。
 サウル王のねたみのために、追われて荒野に逃げたダビデは、人間の助けから切り離されて、ますます深く神により頼むことを学んだ。荒野の生活は不安で落ちつきがなく、たえず危険に迫られ、幾度となく逃げ出さなければならず、しかもそのダビデのもとに集まって来るのは、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々」などといったような性格の人々ばかりであった。こうしたすべてのことのために、彼にとってきびしい自己鍛練がますます必要であった。これらの経験によって人を取り扱う能力やしいたげられる者への同情心や、不正への憎しみがダビデの中にめざめて成長した。待望と危険の幾年間を通じて、ダビデは慰めと支持と生命を、神の中に見いだすことを学んだ。彼は、神の力によってのみ王位にふさわしい者となり、神の知恵によってのみ賢明に統治し得るということを知った。ダビデが「そのすべての民に正義と公平を行った」という記録を残すことができたのは、――もっともそれは後になって、大きな罪のために傷つけられはしたが、――困難と苦悩という学校で受けた訓練の賜物であった。(教育170, 171)
 彼を感動させた愛、彼を悩ました悲哀、彼の得た勝利などは、みな、彼の活発な心の主題であった。そして、彼が自分の生涯のすべての摂理の中に、神の愛をながめたとき、彼の心は熱烈な賛美の感謝に脈打ち、彼の口からはさらに美しい旋律が流れ、たて琴は歓喜にあふれてかきならされた。こうして、羊飼いの少年は、力から力へ、知識から知識へと進んでいった。それは、神の霊が彼と共におられたからである。(人類のあけぼの下巻314)

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