「神と格闘し、勝利する」

  「主なる神は言われる、わたしは生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである。」(エゼキエル14:20)


 神は人生の小さなことにおける不忠実を見のがされると、サタンは多くの者に思い込ませている。しかし、主は、ご自分が、悪を是認することも大目に見ることもなさらないかたであることを、ヤコブの取り扱いにおいて示された。罪の言いわけをしたり、隠したりして、それを告白せず、許されないまま、天の書に残しておく者は、みなサタンに負けてしまうのである。口でりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、その人々の行動は、神の目には嘆かわしいものであり、大いなる敵サタンの勝利はいっそう確実なのである。……
 ヤコブの生涯はまた、欺かれ、試みられ、罪に陥れられても、真に悔い改めて神に立ちかえった者を、神は見捨てられないという保証でもある。サタンはこのような人々を滅ぼそうとするが、神は天使を遣わして、危機の時に彼らを慰め、保護されるのである。サタンの攻撃は、激しく、断固たるもので、彼の欺瞞は恐るべきものである。しかし、主の目はご自分の民に向けられ、その耳は彼らの叫びを聞かれる。彼らの苦悩は大きく、炉の火は彼らを焼き尽くすように思われる。しかし、金を吹き分ける者であられる神は、彼らを火で練った金として取り出される。この最も激しい試練の時における、神のその子供たちに対する愛は、彼らの最も輝かしい繁栄の時と同じように、強く、やさしいのである。しかし、彼らは、火の炉に投げ入れられる必要がある。キリストの姿が完全に反映されるように、彼らの世俗的なところが焼きつくされねばならない。
 われわれの前にある苦悩と苦悶の時は、疲労と遅延と飢えに耐えることのできる信仰、すなわち、激しく試みられても落胆しない信仰を要求する。その時に備えるために、すべての者に恩恵期間が与えられている。ヤコブは、断固として屈しなかったために勝利した。彼の勝利は、しきりに願い求める祈りに力があるということの実証である。彼のように神の約束をしっかりとつかみ、彼のように熱心で忍耐強い者はみな、彼が勝利したように勝利するのである。自分をすて、神の前で心を悩まし、神の祝福を求めて熱心に祈り続けようとしない者は、それを受けることができない。祈りによる神との格闘――このことを知っている人がなんと少ないことであろう。熱烈な願いをもって、心から神によりすがり、全力を注ぎ出す人がなんと少ないことであろう。嘆願者の上に、言葉では表現することのできない絶望の波が押し寄せるときに、確固不動の信仰をもって神の約束にすがる者が、なんと少ないことであろう。……
 世界に最後の厳粛な警告を伝える使命者たちが、……ヤコブのように、熱烈に、信仰をもって……祈り求めるならば、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と言うことのできる多くの場所を見いだすであろう(創世記32:30)。天は彼らを、神と人とに勝つ力をもった王子たちとみなすのである。(各時代の大争闘下巻393〜396)


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