「贖いの値」

 「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル9:12)

 一人一人の魂は、イエス・キリスト尊い血によって買い取られたのであるから尊いのである。(教会への証5巻623,624)
 ある人々は、ユダヤ時代は恵みの憐れみがなく、キリストがおられなかった期間だと言う。そのような人々には、キリストがサドカイ人たちに言われた言葉が当てはまる。「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」(マルコ12:24)。ユダヤ時代は、素晴らしい神の力が表された時代であった。……
 犠牲制度そのものはキリストによって考案され、世の罪を負い、罪の贖いのために死なれる救い主の到来を象徴するものとしてアダムに与えられたものであった。……
 神の御子の血は殺された犠牲の血によって象徴されており、神は清いものと清くないものの間に明白ではっきりとした考えが保たれることを望まれるのである。血は聖なるものであり、神の御子の血が注がれることによってのみ罪の贖いがなされるのである。血は、民の罪から聖所を清めるためにも用いられており、唯一罪を清めることのできるキリストの血を象徴していた。(神のむすこ娘225)
 わたしたちの救い主は、賜物として永遠の命を携えて来られたと宣言された。このお方はすべての人をご自分に引き寄せるために、カルバリーの十字架上に揚げられるのであった。そうであるなら、わたしたちはどのようにキリストの買い取られた遺産を扱うべきであろうか。優しさ、感謝、親切、同情、愛が示されるべきである。その時、わたしたちは互いを助け祝福する働きをすることができるのである。この働きには、わたしたちにとって人間としての兄弟関係以上のものがある。わたしたちには天使との気高い交わりがあるのである。彼らはすべての者を啓発する働きにおいて、わたしたちに協力するのである。……
 キリストは御父との会議において、惨めな罪人を助け出すためには、どんなに高価なものも惜しまず、どんなに値が高く見積もられたとしても何も差し引くことがないことを決定された。このお方は、この救済の働きと人のうちに神の道徳的み姿を回復するという働きに全天を与えられるのである。……神の子となるということは、神においてキリストと一つになるということであり、罪のうちに滅びつつある魂を力づけ祝福するために心からの自己犠牲的な愛によってわたしたちの手を差し伸べるということである。(同上229)

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